>「我が子をかわいく思わぬ親はない。」
>もしかすると、「我が子をかわいいと思う親」は、親本人の目的意
>識と、そういう親になれるように支える周囲によって作られた、
>そう、いわば、作品なのではないか。
>言い換えれば、
>「我が子をいとおしく思う親」はスタートではなく、ある種のゴール
>としての姿なのではないか。
>だとすれば、「子どもを愛する親」への道のりは、僕が考えている
>以上に遠いのかも知れません。
>「あのね。言葉は悪いけれど・・。
> 授乳中に子どもの顔を見るでしょ。
> その時さあ、どこかでエイリアンみたいに感じちゃうことも
> あったのよ・・。」
確かに、はいつさんの言われるようかもしれません。
我が子はかわいいのは事実なのです。
しかし、困ったことをされるとなると、
話は別になってきます。
この春保育園に行く我が子。
保育園で友達と仲良く暮らせるように。。。
みんなの輪の中に入っていくことが出来るように。。。
など親心もあったりして、叱ったりするわけです。
でも、それ自体は子どもの成長過程のひとつかもしれない。
そんなに叱らなくっても
楽しく保育園生活を送れるのかもしれない。。。。。
色々と自問自答しながらです。
やはり虐待に近く叱っていや怒っているかも。。。とも考えます。
子どもの心にどれほどの傷になっているかも知れないのです。
それを癒すように、
ギューと抱くことを欠かさないように心掛けていたりもして。。。。
しかし、それとは別に自分の人見知りの激しさに
悩んだり、苦しんだりと
私自身も問題も越えるべきハードルもないわけではありません。
虐待する親も我が子はかわいいのではないかと。
ただ、愛おしさをどう表現して良いのかが分からない。。。
どう叱っていいのかも分からない。
また、親自身の問題を抱えていて
子どもときちんと向き合えない状態かもしれない。。。。
それらのハードルを越えなければならないのに、
日々育つ子どもと向き合うのには
越えるハードルが高すぎる。。。。
そんな風に考えるようにもなりました。
今自分に課せられている問題に向き合うには
育児中の私には、それらを解決に向わせるための時間が少ないと感じるのです。
「我が子をいとおしく思う親」はゴールなのではなくスタートであると。
親自身の問題のハードルが高いのかどうか。
ではないのでしょうか。。。。
その問題を解決するために周りの人がどのように助けてあげられるか。
手を差し伸べてあげられるか。
それらを拒む人もいるけれど、
本当はその手を欲しがっている。。。。。。。。。。。。
エイリアンというなら、
おなかの中にいるときの方が感じた。
おなかの中で自分とは別の生き物が動き回り、
おなかを蹴られ、叩かれる。。。。
まさしく、エイリアンに侵略されていた。。。。。
そして、やはり、
自分と違うことを言う我が子はエイリアンです。
そしてそれは一人の人間であると言うことでもあると、
私はうれしくも思っているのです。