中学の国語の先生になるつもりが、「不本意ながら・・・」という
奴ですね。
「中学生の体格に幼児レベルの知的障害」という子供達の集まる養
護学校での日々は衝撃の連続でした。
毎日毎日、くたくたになるほどの肉体労働。
でも、子供達とのべったりの濃厚な生活は、人が自分の持っている
能力を最大限に駆使して生きていこうとする姿を生意気盛りの小娘
にしっかり教えてくれたと思います。
ただ、養護学校の中から、知的障害を持った子の受け入れられ方を
見たとき、(ことに普通校での「特殊学級」での)
「この子達は普通の子達の教材ではないぞ」
「この子達は未熟な先生達への研修材料ではないぞ]
ということでした。
確かに障害を持った子をみなでサポートして守ってあげることは、
健常者の子供にとってはよい勉強になります。
知的障害の子がゆっくりと学んでいく姿勢を知ることは、若い教師
にとっても貴重な経験になるでしょう。
でもそれはあくまでも障害を持った子が生きている姿から派生的に
周りが学ぶことであって、本人が本当に充実した人間関係や優れた
教師に出会うこととは違う気がするのです。
「若い教師に特殊学級、養護学校での経験を。」
「子供達に障害児と触れ合う機会を」
というとき、そこにある微妙なずれを感じて、苦い思いをします。
障害を持った子供こそ、深い専門知識と経験を持った優れた教師を
必要としています。
障害を持った子供こそ、
「誰かにサポートされて、世話を焼いてもらう」のではない自立の
精神を育んでやらなければなりません。
私は養護学校の教壇にたった数年間を
「すばらしい経験をさせていただいた。」と感謝しつつも、あの子
供達に何を与えてあげられたかと振り返ると、恥じ入って穴に入る
しかない心境になります。
これは障害児教育だけにかかわらず、普通校での指導にも家庭での
育児にもいえることですが、
子供の成長から教師や親が学ぶことは多いけれど
子供達の存在は教師や親が学ぶためにあるのではない
ということを厳しく自分に戒めておきたいと思います。
大事な子供達を「育てさせていただいている」ことはあくまでも神
様の「恩恵」だと感じていたいのです。
(了)