「さきちゃんの話」を読んで「ゆっくりと」の言葉で思い出した我が娘のはなしです。
ある日私は自分の見た夢の話を小5の娘にしました。
その夢は、自分が要領が悪くて、他人にどんどん追い越されて悔しい思いをしたという内容でした。
すると娘は「要領が悪いってどういう意味?」と聞いてきました。
わたしは、次のようなたとえ話をしました。
「クラスでパンを配ることになったとするでしょ。先生が並んでくださいと言うよね。
一番に並ぶ子って決まってたりするよね。
わざわざ、10番くらいに並んでどのパンにするか品定めするこもいるよね。
そういう子が要領のいい子。
みんなに押されて最後になってしまうのが、要領の悪い子。」
このたとえは、我ながら恥ずかしいような相当無理な作り話です。でも、娘は言いました。
「なぜ、最後ではいけないの?」
わたしは、「パンが間違って、一個足りないかもしれないし、嫌いなパンが残るかもしれないでしょ。
早くもらわないと安心できないし。」と言いました。
「それでも、私は最後でもいいと思う。
だって、私が最後にならなければ、他の誰かが最後になるでしょ。
私は最後でいい。」と、娘はきっぱりと言いました。
わたしは、自分が恥ずかしくなりました。
一方、いつもゆっくりで、スロースターターの娘の中にこのような考え方が育っていることに
驚きと喜びも覚えました。
それは、物事をてきぱき早くこなすことが善であると、教育されてきた私には思いもしないことでした。
わたしは、その日から娘の「のんびり」を違う目で見ることができるようになりました。
その娘も中学生になり、教室移動など学校生活でせかされることが小学校より多い生活に
それなりになじんでいます。
でも、相当なストレスだろうなと思いますが、
娘の良さを私が見失わなければいいのではないかと信じているだけです
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