●いえ、宗教の話じゃありません。
感じ方の話です。
●「なむあみだぶつ」という文は3つの部分から成り立ってます。
「なむ」は「信じます」とか「おまかせします」の意味。
「あみだ」は「阿弥陀(あみだ)さま」のこと。
そうそう、あの「あみだくじ」の阿弥陀さま。
「ぶつ」は「仏(ほとけ)」。
つまり「悟りを開いた人、ブッダ、如来(にょらい)」の意。
通せば、
「あみだの仏様を信じます。」と言う意味ですね。
では、あみだ様の何を信じるのか。
あみだ様は、ある誓いをたて、願い、約束とした。
「私はすべての人を救います。」
その誓願を信じるということだ。
ちなみに、これを本来の願い、つまり「本願」という。
自分でつらい修行をつまずとも、あみだ様が極楽に導いてくれると
いうシステムだ。
なんか、「それでいいの?」と言いたくなる。
未納でも、年金もらえちゃうって話と一緒じゃん。
なんか変。
でも・・・。
年金はだめだけど、念仏はそれでいい。
・・・らしい。
どういうことか。
迷いの多い自分の力を信じるより、あみだ様の力を信じるというこ
とだから、いい・・。
とまあ、こういうことなのだ。
だから、「他力本願」とよぶ。
他力とはあみだ様の力に他ならない。
逆に言えば、自分の力を信じてはいけないと言うことだ。
●浄土真宗の開祖「親鸞(しんらん)」はこう言った。
「善人でさえ救われる、悪人ならもっと救われる。」
ウソみたいでしょ。
ホントです。
より正確に書くとこんなふう。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」
・・・。
「げげっ。そんなのあり?」と叫びたくなりませんか。
「悪いことをした方がいいの?」と問いただしたくなる。
じゃあさ。
未納の方が、年金たくさんもらえるってこと?
ああ、ごめんなさい。
40も半ばにさしかかると年金が気になるのです。
親鸞は言う。
「じゃあ、悪いことってどんなことなんだ?」
「何をもって善人と言うんだ?」
そう言われると、困る。
少なくとも僕は、困る。
わかるようで、わからない。
ない智恵をしぼって、自分なりの答えを探りたくなる。
クイズみたいなものだ。
で、考えた。
「自分は善人だとうぬぼれてはいけない。」
という戒め(いましめ)を含んでいるのかもしれない。
「人間は多かれ少なかれ、みな、悪い部分を持っている。」
そう言いたかったのかも・・・。
いずれにしても・・。
なんとも意表をつかれる、そして、考えさせられる深い言葉だと思
う。
やるなあ、親鸞さん。
さすがだ。
●だからなのかもしれない。
古来より、寺は、「悪人」をもてなした。
罪人を受け入れ、衣食住を与えた。
いや、もちろん罪人だけではない。
どんな人でも、みいんな受け入れた。
「かけ込み寺」はどこにでもあった。
そして、新しい出発(たびだち)の手伝いをした。
自力では何も解決しない。
罪を犯すこと、そして、償うこと・・。
この相反するかに見える、二つの行為。
この両方とも自力ではない・・・。
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)。」
あみだ様の前では「善」も「悪」もないのだ。
寺は、そういう思想を実践してくれていた。
●信心深くない僕でも、お盆にはお墓参りをする。
僕んちのお墓は、浄土真宗のお寺にある。
「南無阿弥陀仏」の本家だ。
その寺のいたるところに目があった。
コンビニや銀行などでおなじみの無機質な目。
そう防犯カメラ。
出入り口や窓には、大きなシールがはってあった。
「○○警備保障。」
寺は守られていた。
誰から?
真宗のお寺だもの。
もちろん、あみだ様・・。
いや、違う。
警備保障の会社によって守られているのだ。
そのバリアーは何をはじき飛ばすのか。
妖怪?オバケのたぐい?
違う。
まぎれもなく人だ。
不審人物。
たぶん、これから泥棒をしようとしている人だろう。
だから、はじく。
寺は、罪人の受け入れをやめたのだ。
怖いもんね。
刃物でも持っていたら、もう大変だもん。
だから、やめた。
泥棒はどうすりゃいいのか。
しょうがない。他をあたるか・・・。
寺は守られた。
ほっ。相手は不審人物だもんね。
「なむあみだぶつ」を説くことによって、罪人に救いの場を提供し
てきた寺は守られねばならないもの。
待てよ。
これ・・。
親鸞さんに言わせれば、すべての人の受け入れをやめたということ
ではないかしら?
だって悪人さえも救われないってことでしょ。
いわんや善人をや。
あげ足とりかなあ・・。
●人が人を受け入れる場所が消えていっている。
そう思う。
人が人をはじくようになった。
そう思う。
●僕だってはじく。
たくさんはじいてきた。
だから、はじかれている。
はじかれても、いい。
いやだけど、まあ、いい。
でも、はじきたくはない。
本当にそう思う。
自力でも他力でもいい。
そんな心を持ちたいなあ・・。
本当にそう思う。
(了)