>学校なしの子育て・・・・。
>
>それは明治5(1872)年「学制発布」までは当たり前のことだった子
>育てです。
>そもそも学校という物は民衆の側から出てきた要求ではなかったようです。
>当時の人々は学校をありがたがるどころか、学校を打ち壊すという事件ま
>で起きたそうですから。
>
>わずか130年の間に、僕たちは学校に頼り切った子育てに染まってしまっ
>たような気がします。。
1872年の学制発布は、たしかに欧米に追いつくための政策でありました。でも一部の
地方で学制反対一揆があったからといって、学校を作る事が人々の要求ではなかった
という理解は間違いです。
実際に僕が住んでいる多摩地方(今は東京都と神奈川県に分かれています)では、
江戸時代の後半から村村に寺子屋が作られ、その中から「塾」と称した、読み書きそ
ろばんに止まらない高等教育をほどこす学校が、村村の庄屋格の村人を中心にして設
立されています。教師は庄屋の息子の一人で江戸で学問を修めたもの。そしてこの傾
向は1854年・58年の開国とともにさらに加速され、その学習教程の中にはヨーロッパ
の思想や歴史・仕組みを学ぶものまであったそうです。
ですから多摩地方の多くでは1872年の学制発布とともに各村に小学校が建てられ各
地から優秀な教師が招かれたそうです。
この動きが基礎になって、後に国会開設を求める自由民権運動の全国的中心地の一つ
となりました。
そしてこのとき学校に積極的にいった児童の中に女性も多く、学制発布から20年後
ごろに郡全体で学力テストをやったらトップクラスは全部女性だったという話しもあ
ります。
全国的にみてもこう言う地方が一杯あったと思います。確実に言える事は、後に民
権運動が盛んになったところでは江戸時代から学校が次々に村や町の人の手で作られ
ていたと思います。九州についてはよく知りませんが、調べてごらんになると良いと
思います。
学制反対一揆はほとんど地租改正反対一揆とセットです。それは比較的商工業が発
展しておらず、現金収入の少ない家庭が多い農村部で現金で納める地租に反対して起
きた動きの一貫だったと思います。
農村でも商工業の盛んな地域は一揆ではなく、村の戸長を通じて請願したり、後に
できた村議会や県議会をつうじて請願や反対決議で対抗し、地租の減額要求を出し
て、その力でそれを勝ち取っていたはずです。
ですから明治期において民衆にとって学校設立は要求ではなかったとは言えませ
ん。むしろその後、学校が民の主導下で運営されるのか国家の主導下で運営されるの
かが問われ、民権運動をめぐる政府との争いはこの学校を巡る争いという一面をもっ
ていました。
なにしろ初期の学校の運営は村人から選ばれた学事委員によって集団的に運営さ
れ、村議会の議決を経ずには校長の人事も教育課程も決まらなかったのですから。国
家は今日の学習指導要領などという国家的指針はまだもたず、検定教科書も国定教科
書もなく、すべては村人町人の自主決定だったのですから。
このしくみが1880年以後徐々に解体され、1890年だいにいたって国家的に統制さ
れ、その統制のシンボルとして教育勅語がだされたのです。
それでも民が学校を統制しようとする動きは長く続き、大正自由教育もその流れで
すし、戦時下の国民学校ですら郷土教育という形でその国家統制に抵抗し、その流れ
の中に東北地方で育った綴り方教育があるのですから。
学制発布から10年たった1880年代から今日までの教育は、学校を国家が管理するの
か民が管理するのかの攻め祇合いの歴史でもあったのです。