僕の父は79才になります。
「このごろ、ぼけたなあ・・。言葉がなかなか出てこんなあ・・。」
としきりに言ってます。
たしかに、そんな感じなんです。
例えば・・。
父は相撲が好きなんですね。
それで、食事時に、ごひいきの力士の話をよくするんですが、いか
んせん、しこ名が出てこない。
「あれ、あれ、・・・なんて言ったかなあ・・・。
あの塩をふる前に体をぱんぱんたたく力士・・・。
うーん、名前が出てこんなあ・・。」
悲観した様子ではなく、孫達にてれくさそうに、そんなふうに話し
始めます。
父は元来、口数の多い人間ではありませんでした。
大正生まれで「男のおしゃべりはみっともない」と育てられた世代
なのです。
感情を表に出すことをいさぎよしとしない考え方でもありました。
特に母に対してはそうでした。
食卓について、「おい。」の一言。
母は何事かを察し、お茶を注ぐ。
父はズズズとすすり、そして「うまい」も「まずい」もない。
ただ、飲み、ふううと一息つくだけ。
そんな光景を何度も見てきました。
しかし、相撲のことになると雄弁でした。
その日の取り組みはおろか、数場所前の同じ取り組みまできちんと
記憶して、あたかも実況中継の解説者のように話してくれていたの
です。
幼い頃の僕は、そんな父の話を聞くのが好きでした。
僕自身は見たこともない力士達の活躍の話にさえ胸をおどらせ、
「おとうちゃん、すごいなあ・・。すもう博士やなあ・・。」
などと思っていたものです。
その父が・・・。
ごひいきの、しかも、今見たばかりの力士の名前が出てこないとい
う年齢になったのです。
これは、僕にとってなんとも微妙な感覚なんです。
悲しいのかもしれないし、さびしいのかもしれない、まったく違う
のかもしれない。
実に微妙です。
父から離れていったのは言葉だけではありません。
多くの動作もそうです。
走るなんてことはもちろん、スムーズに歩くってことも、もうすで
に手の届かぬ所にいってしまっています。
いろんな事が自分から離れていく、自分が大好きだったことに対す
る記憶や感覚さえも離れていく、日常の生活さえも離れていく、そ
れが「老いる」ということかな・・・。
そんなふうに僕は漠然と考えていました。
ところが・・。
ところが、離れて行くだけが「老い」ではない、と、この頃の父を
見て、僕は見つけたのです。
老いにしたがって、少なくとも2つのものが父に近寄ってきたよう
に思えるのです。
1つは「涙」です。
それも「うれし涙」なのです。
孫達が自分の絵を描いてくれたと言っては涙し、久しぶりに旧友と
話ができたと言っては泣くのです。
感情を表に出すことが少なかった父が見せる涙は、僕を驚かせるに
充分な変化でした。
それから、もう一つは「ありがとう。」という言葉です。
「うまい」も「まずい」もなかった父が、他人だけでなく、僕ら家
族に対してさえも「ありがとう」を繰り返すのです。
それも特別な場合ではないのです。
たとえば、家族の誰かが、寝る前に父の部屋をのぞき「おやすみ」
を言います。
すると父も「ああ、おやすみ。」と言葉を返します。
その後、必ず言うのです。
「ありがとう。」
この2つは、とにかく若い頃の父が獲得できなかったものなのです。
「老いる」という過程が、それを受け入れていく過程が、父にその
獲得を許したのですね。
失うことに妥協することだけが「老い」だと思いこんでいた自分・・。
でも今はその考えを疑っています。
多くを失いつつも、若い頃には得難かったある種の感性が近づいて
くる、それが「老い」というものなのでしょうか・・・。
父は昨晩も言いました。
「ありがとう。」
2003年1月19日