子ども達は朝起きてくると1番に柿を見に行きます。
しげしげとながめては、
「ああ、まだ、できてないや。」と繰り返すのです。
まだ食べもしていないのに、頭の中には、あのちょっと固くてかな
り柔らかい独特の食感と、刺激的でない天然その物の甘さが広がっ
ているようでした。
ある時、いつものようにながめていた子ども達とかみさんが、隣の
部屋にいた僕の所にあわててやってきました。
「お父ちゃん、メジロが来てるで!」
「えっ?」
「メジロや、メジロ。ほらっ。」
子ども達が指さす方に目をやると、干し柿のつるし糸に赤子の手の
ひらにさえすっぽり収まりそうなメジロがとまっていました。
「お父ちゃん、静かにな。静かにせんと、にげちゃうよ。」
メジロは一生懸命に柿をつついていました。
冬山は彼らに充分なほどの食べ物を供給できなくなってしまったの
でしょう。
それで、我が家の干し柿に目をつけたということだと思います。
それからというもの、子ども達の楽しみに、メジロとのご対面が加
わりました。
彼らは1羽でやってくる時もありますが、つがいでやってくること
もあります。
小さな体に小さなくちばしですが、毎日毎日やってきてはつつくも
のですから、とうとう楽しみにしていた干し柿が小さく小さくなって
しまいました。
「こりゃ、まいったなあ・・・。」と思っていたのですが、そのう
ちに、不思議なもので、飼っているわけでもないそのメジロ達が大
切なお客さんになったような気がしてきたんです。
かみさんや子どもも同様で、・・・いや、もっと愛着がわいちゃっ
て友だちみたいな感じかなあ・・・。
わざわざメジロ用に数個の柿を残してあげる始末です。
僕は、この小さな来訪者と家族の応対になんとも言えぬ幸せを感じ
ていました。
でも、ある時、ふと思ったのです。
なぜ、そんな事を思ったのかはわかりません。
どうにも、奇妙な感覚ではあるのですが、こう考えたのです。
もしメジロが人間だったら・・・・って。
僕はメジロにそうしたように、その人を歓迎するでしょうか・・・。
見知らぬ人がふらりとやってきて、我が家での食事をのぞんだら、
どうでしょう・・・。
僕は、その相手のことをろくろく知ろうともせずに、たぶん拒否す
るでしょう。
いや、まちがいなく拒絶するでしょう。
その人が「何かしらの困難をかかえているのではないか。」と思い
やるよりも、「あやしい人だ。」と、まず疑ってかかるに違いあり
ません。
なぜ、小さな鳥達に対する感情と同じ種類の思いを、人に対しては
持てないのだろう・・・。
これまでの人生で、僕が感じ、学び、作ってきた「人に対する思い」
というものは何だったのだろう。
それまで考えもしなかったが、僕の「人間観」の多くは「不信」か
ら作られているのではないだろうか。
子ども達は、今朝もメジロの来訪を喜んでいました。
彼らは、今、彼らなりの「人間観」を作ろうとしています。
僕は、親として、きっとその形成に影響を与えているはずです。
そう考えると、少しだけ複雑な気持ちになるのです。
「こんな世の中だから、しかたないよなあ・・・。」
そんなことを、たぶん無理やりに、自身に言い聞かせながら、僕は
子ども達の姿を見つめました。
干し柿はすっかりできあがり、冬も本番です。
2003年1月25日