こんばんわ。川瀬です。
弥生時代と縄文時代の違いは、最近の研究の結果
としてかなり違いがなくなっていますね。どちら
の時代も農耕生活と狩猟採集生活のセットです。
少し違うのは、縄文はおそらく焼畑農耕で、穀物
は米主体ではなく、あわとかひえとか大麦。あと
陸稲があったはず。弥生は稲作水田農耕主体。
 稲作が縄文晩期に福岡の板付で始まっていたと
いうことは、焼畑主体の縄文社会に水田稲作の弥
生社会が集団移住して、その地をおそらく武力征
服したということ。おそらく弥生人はその体の特
徴から朝鮮系・中国系渡来人。縄文人はマレー系
でしょう。
 あと大きな違いは、縄文社会は共同体社会で、
おそらく王はいない。部族の長はいただろうが。
王ではない。でも弥生は、王がいる。ただし共同
体のシンボルとしての王。神であり神主であり部
族の長であるという、今日の王のイメージとは
ちょっと違う。
 金印が出てきた場所は、あきらかに朝鮮系の支
石墓(ドルメンという)。大きな2段組の石の下
に、石で組んだ石室があり、その中に王の印であ
る金印を入れたわけ。
 ただ吉野ヶ里は「古墳」と考えたほうが良い。
墳丘墓は形態から明らかに古墳である。そして卑
弥呼も弥生ではなく古墳である。卑弥呼の墓の形
態はあきらかに墳丘墓だから。
 しかし縄文は1万年と長いから、早期はかなり
弥生とはちがう。おそらく焼畑もないだろう。
前期に焼畑も生まれ、巨大住居もでき、高床倉庫
もできたことは、青森の三内丸山が証明してい
る。
 このあたりのことは教科書には全く書かれてい
ませんね。
 縄文と弥生の相克のこと。その後の日本王朝の
歴史については、古田武彦という歴史家の説がユ
ニークであり説得的です。ご一読あれ。

 次号は縄文土器と弥生土器の命名の話ですね。
一度百科事典で引かれておいたほうがいいです
よ。できたら図書館の考古学辞典を。
 弥生土器のほうが発見が早かったはず。そのあ
と有名なモースという学者が大森貝塚から縄目模
様の土器を見つけ。これが弥生土器より古いと言
い出した。ただしこの時はまだ弥生土器とは呼ん
でいない。たしか(うろおぼえですみません)無
紋彩色土器だったとおもう。文様を掘りこんでは
いないけど色を塗ってあると言う意味。朝鮮の古
い土器(縄文土器の時代にあたる)が櫛目紋土器
で、弥生にあたる土器が無紋土器なので、これと
の対比で仮に名づけていたと思う。
 そしてどっちの土器が古いのかを論争していく
過程で、縄文・弥生という名前が定まっていた。
 どうして一方が形態で、他方が最初の発見地に
なったのか?。
 ちょっと調べてみますね。



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