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【0】はいつから
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●メルマガ発行所の「めろんぱん」さんが、このおはなし集
 「ぽとり」をオススメ・メルマガに選んでくれました。

●メルマガナビの「ゆう」さんという方が選んでくれたのです。

●ゆうさんは、下記のように、身に余りすぎる「おすすめ文」をく
 れました。

●ぽつぽつと送られてくるおはなしにほっとする。
 そんなマガジンです。
 忙しい日常にひとときの清涼剤としていかがでしょうか。
 編集人の人柄の良さを思わせます。

●ありがとうございました。
 これからも、ぽとり、ぽとりと続けます。
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【1】今回の発信
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前回発信した「花の名前」の【想い編】です。
まだ、本編を読まれていないない方は【2】に掲載していますので、
ぜひ、そちらもご覧下さい。
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子どもの頃、こんな経験をお持ちではないですか?

遠足。

先生が言います。
「今日は、好きな者どうしでお弁当を食べていいよ。」

「やったあ。」という歓声。

ドキリとする僕。

孤独に対する不安。

・・・。

「好き」という感覚は、どこか不思議です。

誰かを愛する、何かを好きになるということは、
とても貴重だし、尊い心の動きなのだろうとは思います。

そして・・。

その崇高さは、巨視的に見れば、真理に近いものなのかもしれませ
ん。

でも。

自身を見つめ直した時、僕の感覚はそれを否定するのです。

僕が発する「好き」という感覚は、僕自身のエゴから生まれた、ど
ちらかと言えば透明感のないものだと思えるのです。

そこに尊さを見いだすことはできません。

あくまで、僕にとってですが。

エゴイズムの究極の表現として「好き」があります。

だからこそ、その感覚は不安定でうつろいやすく、ほんの少しのこ
とで流され消えゆくこともあります。

もちろん、
そのことに対する嫌悪というか罪悪感とよべるものも生まれます。

しかし、それすら、うつろい、消え去るのです。

僕は、そのように崇高とされる「好き」の持つ、きつい言葉を使う
ならば「原罪性」を自問したかったのです。

ひょっとすると「好き」が持っている本質的な虚しさと言えるかも
知れません。

その虚しさを知ることによって、誰かから「好かれている」とか
「嫌われている」ということに対する安心感や不安感を再考できる
のではないかとも思うのです。

僕は、そんな想いで、このお話を創りました。

そうです。
遠足の時の、あの僕に向けて。です。

ありがとうございました。

次回も、おつき合い頂けたら 幸せです。

ではでは。

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【2】こんな「お話し」でした。
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   「花の名前」
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小さな花がありました。

一人の男の子が近づいてきて言いました。

「きれいな花だなあ。」

小さな花はうれしくなりました。

「お父ちゃん、ここにきれいな花があるよ。」

男の子は父さんをよびました。

小さな花は、もっとうれしくなりました。

お父さんがやってきて言いました。

「本当だ。きれいだなあ。」

小さな花は、もっともっとうれしくなりました。

「この花の名前知ってるかい?」

とお父さんが聞きました。

「知らないよお。」
と男の子が言いました。

小さな花はびっくりしました。

自分に名前があるとは知らなかったのです。

「スミレ」と言うんだよ。

「へえ。
 お父さん、物知りだなあ。
 すごいや。
 じゃあ、あっちの花はなんていうの?」

男の子が遠くを指さしました。

「どれどれ?
 ああ、あの黄色い花だね。
 よし。あっちへ行ってみよう。」

二人は行ってしまいました。

小さな花が、小さな声で言いました。

「名前なんて、いらないや。」

小さな花は、小さなちょうちょうを待ちました。

おわり。



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