「たそがれからの階段」

 昨日、久しぶりに近くの公園に足を運んだ。

ふと目にしたブランコに乗ってみた。
幼かった頃、僕はブランコが大好きだった。
時として無重力状態を思わせるような振り子運動が魅力的だった。
あのスピード感がたまらなく爽快だった。

しかし、昨日味わった感覚は魅力的でも爽快でもなかった。
情けないのだが、ただ単に軽いめまいと吐き気を覚えただけだった。
三半規管が弱ってしまったのだろうか、、。

そういえば僕は幼い頃から親しんだ「たくさんの遊び」を捨て去ってきた。
ブランコもそうだし、砂場、すべり台、ジャングルジム、ビー玉、ドッジボールもそうだ。
たくさんの遊びを踏み台に僕は成長してきた。

しかし、僕は漫画を捨てきれないでいる。
漫画だけが30年以上も生き残ってきた。

積極的にかかわることはなくなったものの、漫画は生きている。

砂場では得られない面白さを、「アトム」では得ることができるのだ。
 
何故なのだろうか。何故、漫画だけが・・。
いや僕だけではないはずだ。たくさんの日本の社会人達が同じように感じているはずだ。
だからこそ社会人向けの漫画雑誌が花盛りなのだ。

きっと漫画は「遊び」という1面だけで捉えられるものではないのだ。
それはあたかもミラーボールのように観る角度によって違う光を放つ多面体の性質を持つものなのだろう。
ある人にとっては「芸術」であり、「文学」であり、また人格をもった「友人」でもあるのだろう。
それゆえ「捨て去れる」ものではないのだろう。

しかし。

たそがれ・・。

そう、たそがれ。なのだ。

その光は、まばゆさよりも、たそがれなのだ。

今、その階段を、もう一度降りてみようと思う。 



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