フィクションとリアリティ
漫画はフィクションである。
漫画読みである僕らはもちろんそれを承知している。
くどいようだが完全に承知している。
以前に、ある少年が罪を犯した。
犯罪は殺人で、その残酷さが世間を震撼させた。
そして少年が犯行声明に使った文章がある漫画のセリフをベースにしたものだった。
ご記憶の方も多いと思う。
多くの評論家は「漫画の悪影響」を訴えた。
現実と漫画の世界の境界がわからなくなったからだと言った。
そのような漫画をなくせ、と叫んだ。
なんと訳の分からない論理を振りかざすのだろう。
僕らは確かに漫画から影響を受ける。
いや、もっと積極的に影響を期待して読んでいる。
「サインはV」を読み、夕焼けをバックに放課後の砂場で回転レシーブの練習をした。
「ベルサイユの薔薇」は宝塚志望者を倍増させた。
「柔道一直線」の読者は、神社の巨木に縄を結び、背負い投げの打ち込みをした。
では、ある読者が背負い投げを使い、友人にけがをさせてしまったとしよう。
この読者は「柔道一直線の悪影響」を受けたのか?
答えは否だ。
影響をどう処理するかは、その個人のパーソナリティにのみ左右される。
漫画と犯罪の関係は、包丁と犯罪の関係と同じだ。
料理に使うか、傷害に使うかは、包丁自身はあずかり知らぬこと。
くりかえす。僕ら漫画読みは漫画をフィクションだと理解している。
そして、フィクションの中に漂うリアリティを受け止め、現実を見つめる術を知っている。
それが漫画読みの漫画読みたる由縁なのだから。
(了)