●「いっちょうドリルで・・(アストロ球団のアンチテーゼ)」
人生は選択の連続である。
一瞬たりとて、選択の岐路に立たぬ時はない。
進学どうする?
就職どうする?
結婚どうする?
なんて、おおげさなことだけでなく、日常のすべてが、
選択の網におおわれているのだ。
たとえば・・。
これをお読みのあなたが、鼻くそ、ほじくっているのも、
選択の結果である。
読んだ後にほじくることだって出来たわけだから。
さて、そうやって、常に選択を迫られている我々だが、
その決断のメカニズムはひとつしかない。
「過去へのアンチテーゼ」である。
鼻くそばかりで、恐縮だが、ことの成り行き上、勘弁していただきたい。
たとえば、君が過去に「深くそ」を狙いすぎて、出血したとしよう。
未来の君は、すでに、過去の君ではない。
次にほじくる機会があれば、君は、おそらく「浅くそ」にとどめるだろう。
いや、もしくは、より細い爪の先で、あくまでも「深くそ」に挑むかもしれない。
いずれにしても、過去とは違う選択をする。
その結果が、吉と出るか凶と出るかは、わからぬが、
そこには、アンチ過去な君がいるのだ。
これが、個人としての成長であり、種(しゅ)としての進化なのである。
もちろん、マンガも同様である。
たとえば、野球マンガ。
梶原一騎全盛の頃、「巨人の星」はその集大成をなしたと言われていた。
それまでの野球マンガは荒唐無稽な魔球ですまされていた。
しかし、梶原以降、きちんと理論武装した魔球でなければ、
読者は満足しなくなったのだ。
これは、大変なことである。
野球マンガにとって、魔球は大きなエッセンスであり、捨てがたい。
しかし、おいそれと理論付けなどできぬではないか。
なにせ、魔球なんだから・・・。
しかし、そこで終わるわけにはいかない。
「巨人の星」が連載を終了した一年後の1972年、同じジャンルに同じように魔球を
ひっさげて、あるマンガが産声をあげた。
「アストロ球団(原作遠崎史朗、作画中島徳博)」である。
荒唐無稽では、もはや、通用しない。
しかし、魔球は産み出さねばならない。
「巨人の星」のアンチテーゼとして存在せねば、生き残りは難しい。
「アストロ球団」で新たな魔球を模索する、主人公、宇野球一は、どう動くのか。
星飛雄馬を超える必要は、必ずしもない。
だが、飛雄馬ではない姿を提示する必要はある。
作者たちは、ここで、驚くべきアンチを見せてくれたのだ。
理論の通用しない、しかし論理的という、大逆転の発想をやった。
なんと、主人公に、高速回転する電動ドリルを素手で握らせたのだ。
ドリルだよ。ドリル。ウィーンとうなりをあげるドリル。
当然のごとく、ずたずたになる指先、悲鳴をあげる主人公。
何をしたいのだ、宇野球一!
野球をあきらめるのか!
しかし、彼は微笑む。
これで・・・。
この変わり果てた俺の手から、繰り出される球は、どんな動きをするのか、
神様にだってわかりっこないぜ・・。
たしかに、そうだろう。
しかし、それでいいのか、宇野。
それ、反則だろう。
多くの読者はあきれた。
しかし・・・。
あきれるだけで終わらないのが、マンガ読みである。
「アストロ球団」に「巨人の星」という大風車に挑むドンキホーテの地位を与え、
拍手を送ったのだ。
進化か退化かは、この際、問題ではない。
結果として、アストロ球団は4年間の長きに渡って連載されたのだから。
どうだろう、みなさん。
いっちょう、ドリルで鼻くそほじくってみるか。
(了)