僕とかみさんは考えました。
僕らは、子ども達にどんなことを、どんなふうに学んでほしいのだ
ろうか?
そのためにできる手伝いは、何なのだろうか?
そして、それは、学校という大きな学びの場なしでは不可能なのだ
ろうか?
その問いは僕らにとって、すごく、重そうなテーマでした。
けれど・・・、けれどです。
実は、とても、簡単な、そして、当たり前の答えが出てきたのです。
「自分が学びたいことを見つけてほしい。
そして自分にあった方法で学んでほしい。」
これが、その答えでした。
言葉を換えれば「個性的な学び」です。
たとえば、絵が好きなら、絵を描いて1日過ごす。
花が好きなら、たくさんの花を育てる。
樹木に興味が有れば、山に入っていく。
鳥が好きなら、池や川に観察に行く。
本が好きなら、時間を気にせずに、読書を楽しむ。
虫が見たければ、網を片手に草むらに出る。
音楽が好きなら、音楽を・・。
いろんな「学び」があるはずです。
そして、その「学び」は、「学校あり」、「学校なし」には関係が
ない。
そう気づいたのです。
もちろん、「学び」の手段として、学校が必要になるかもしれない。
けれども、あくまでも、学校は1つの手段である、そう考えました。
いや、もう一歩進んで考えれば、
「学校に行く時間がもったいない」、
そういう「学び」を求めることもあるかもしれません。
だから、僕らのすることは、学校の紹介にとどめるべきだと考えた
んです。
「小学校と言うところがあるよ。行ってみるかい。」
僕らの、働きかけはそこまでにしよう。
僕らの、保護者としての役割は、子ども達を学校に行かせ続けるこ
とでは、けっしてない。
学校は、非常に優れた教育機関だと思います。
素敵な先生、個性的な先生、すばらしい技術を持った先生もたくさ
んいます。
けれども、大きな限界があります。
それは、「個性に応じた教育」が難しいということです。
この限界は、教師の努力・力量うんぬんの話ではありません。
現在の学校教育行政では、難しいと思うのです。
ましてや、家庭が「学校依存症」「学校の植民地」となっているよ
うでは不可能ではないでしょうか。
僕らは、家庭こそ「個性的な学び」の手助けができる場だと信じる
ことを「家庭教育独立宣言」のスタートにしました。
しかし、「教育行政・帝国主義」は僕らに多くの地雷を仕掛けてい
るようでした。
学校に行かないと・・・・・・。
「基礎学力がつかないぞー。」
「友だちはどうするー。」
「将来、就職できないぞー。」
「親戚や世間様はどう思うー。」
(つづく)