先生は、純くんや他の児童にいろいろな働きかけをしま
す。
そして純くんは次第に級友との関わりを持つようになり、
2学期の中頃になると明るい笑顔を見せるようになって
きます。
吉田先生の実践にすばらしさを感じながら、同時に釈然
としないものを感じた僕。
その釈然としないものの正体を考えました。
それは一言で言えば「友だちがいないことは不幸せなのか。」
という疑問でした。
友だちがいないことが不幸だと思えばこそ、親も教員も心配
をします。
若手の教員であった僕もそう思ってました。
「本が友だちだ。」と言い休み時間に一人で本を読む純くん。
この純くんは不幸なのでしょうか。
どうして、僕らは純くんの「ひとり」を「ひとりぼっち」と
感じるのでしょうか。
僕らは、子どもの頃から「友だちの大切さ」を教えられてきました。
先生から言われ、親から言われてきました。
学校は勉強だけのところではない、友だちを作る場でもある・・。
そんな言葉が当たり前のように語られてきました。
そういう環境で育った僕らが大人になり、子ども達に同じように
繰り返し伝えていく。
そして、大人も子どもも、不安になり、心配し、あせる・・。
「友だちがいない。」ということに、大きな負のイメージをかぶせる。
ここに大きな間違いがありはしないでしょうか?
ひとりで本を黙々と読む純くん。
その純くんの行動は心配を必要とするものなのでしょうか。
むしろ、自分の好きな物(本)を5年生にして見つけている行為
に目を向けるべきなのではないでしょうか。
自分の友だちは本だと言える素晴らしさ。
この素晴らしさにこそ注目すべきではなかったでしょうか。
集団と接する中から自分という個を作っていく。
これも一つの方法に違いないでしょう。
しかし、個を確立してから集団と接していく。
これも有意義なことだと僕は思います。
いえ・・・。
むしろ、それこそが、より充実した他者との関係を結べるのではないか、
そう思いもするのです。
自分という個がおぼろげながらも確立してくる時期。
もちろん、個人個人によって、その年齢は違うはずです。
あくまで、僕の例で言えば、17,8才だった気がします。
子どもが学校という場を選ばなかった場合、多くの人はこう言います。
「学校に行かなくて大丈夫?友だちはどうするの?」
学校に行く行かないに、関わりなく、友だちがいないことはちっとも怖
くありません。
友だちがいないことを怖がることこそ、怖いのです。
「ひとり」は、けっして「ひとりぼっち」ではないのです。
次回からは頂いたメールの紹介を交えながら、「家庭教育独立宣言」の
実践を考えていきたいと思います。
どうぞ、みなさんもご意見お寄せ下さいね。