この数字、実は全国の「不登校児童生徒」の人数とほぼ一緒なので
す。(1999年の調査以来ほぼこの数字です。)
別府市まるごとの人数なわけです。
今日は僕なりに「不登校」について考えてみます。
「うちの子どもは、たばこを吸わない」って問題にする保護者はい
ませんよね。
同じように「受け持ち児童が酒を飲まない」と心配する先生もいな
いでしょ。
「どうして、この子はゲームセンターに行かないんだろう」と悩む
親もいないです。
では、なぜ「学校に行かない」ってことが問題になるのでしょうか。
それは「登校することが当然」とか「登校することがいいこと」と
いう前提があるからです。
実は僕はこの前提を疑うのです。
というか、このような前提を持つこと自体が問題だと思っています。
中世の人間は「地球が宇宙の中心」だと思っていました。
地球は動いていない、天が動いている、そう信じていました。
「天動説」がゆるがせない真実・定説として存在したんですね。
すべての学問がその前提の上で進んできたのです。
けれど、そのうちに、それでは説明できない観測結果がでてきた。
そこで中世の人間がしたことはなんだったか。
観測結果がおかしい、観測結果が問題だ、観測者が問題だと決めつ
けたわけです。
「地動説」を唱えたガリレオは、裁判にまでかけられて、やられちゃ
いました。
でも、その後さらにたくさんの観測結果が出てきて、とうとう
「天動説」という前提そのものが間違っていたことが判明してきま
した。
いつの間に僕らは「登校=いいこと」を定説にしてしまったのでしょ
うか。
それは中世の「天動説」かもしれないです。
そして、僕らは、すでにたくさんの観測結果を持っているのかもし
れません。
「いじめ」「校内暴力」「わいせつ教師」「援助交際」・・・。
これらは、僕たち大人に「前提のみなおし」を迫ってはいませんか?
そして、別府市の人口にも匹敵する13万という人数。
彼らは、ガリレオかもしれないです。
もっとも学校という世界を詳しく観察した子ども達かもしれないん
です。
13万人のガリレオ。
へたをすると、現代という社会は、彼らをまた裁判にかけてしまう
かもしれません。
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僕は「登校」という言葉そのものがおかしいと思っています。
学校と家庭はフラットな関係であるはずだと思っているからです。
「登校」や「下校」のように学校と家庭の高低を意味する表現は
適切ではないと思っているんです。
もちろん「不登校」という言葉自体がおかしいと思います。
ただ、そのことをここで問題にすると、言いたいことが伝わらない
と思い、今日はあえて「登校」という言葉を使いました。
ちなみに僕は「登校」は「通学」と言い、「不登校」は「離校」と
呼びます。
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(了)