私は、第12号の「現状肯定派のかみさんの言葉」に、感動しま
した。
それだけに、肯定できない現実と直面した思いに、心を打たれま
す。
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下記が「かめわざ快心塾(旧「ドラマ教育ネット」)」さんのHP
です。
http://homepage3.nifty.com/kaishin-juku/
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【1】もう一度「校長先生と校長」
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2003年3月9日。
教員出身の僕にとって、特にショッキングな事件が起きました。
広島県の、ある公立小学校の校長さんが自らの命を絶ったのです。
その校長さん、実は、元銀行にお勤めをされていた民間出身の方だっ
たのです。
「情熱を持って、子ども達に接したい。」
という願いを持って取り組んだ校長職でしたが、教職員との摩擦や
多忙さに悩み、最終的に悲しい結末を選んでしまったとのことです。
実は今から2年以上前・・。
2000年7月に、僕は「校長先生と校長」というタイトルで2回
に分けて発信をしたことがあるのです。
東京都が全国初の「民間の校長採用」を決定したのが、その時だっ
たのですね。
当時は、まさか、こんな事件が起こるとは夢にも思ってはいません
でした。
ご冥福をお祈りするとともに、何とも言えぬ重苦しい気持ちの中で、
僕は、もう一度、その時の発信を見直してみました。
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■「校長と校長先生(1)」-2000/07/03-
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「後悔というか、忘れられないことがあるねえ。」
着任したばかりの神田校長は僕たち若手の教員を前に、話を始めま
した。
「まだ若かった頃でなあ。
君たちより若かった頃の話や、、。」
神田校長は湯飲みを両手で包み込みながら、遠くを見るような目で
話しました。
「食事でもしながら話そうや。家においでよ」
という言葉に誘われ、僕たちは神田校長のお宅におじゃましていた
のです。
「新卒の頃に、なんべん言うても、忘れもんの減らん、わんぱくが
おってなあ。
その日も作文の忘れもんや。
毎日毎日、忘れもんや。
こりゃあ、何とかせにゃいかん、と思うて、作文、家に取りに帰
らせたんよ。」
今度は僕たちに視線をむけて、言いました。
眉間にしわを幾分よせて苦々しそうに言いました。
「そして、しばらくしたら学校に電話がかかってきてなあ。
用務員さんが、先生、大変や、と呼びに来てくれた。」
実はなあ・・とため息混じりに続けてくれました。
「その子が帰る途中に交通事故にあってしまったんや。
わしは、顔から血の気が引くという経験をその時初めて味わった。
幸い、たいしたけがじゃなかったんやけどなあ。
今は忘れもんを取りに帰らせる先生はおらんよね。
けど、その頃はけっこう当たり前のように取りに帰らせよったん
よ。
・・・思うたね。
教員は、先の先までいろんなことを想像せんといかん。
子どもに指示をする、その指示がどんな影響を及ぼすか・・。
先の先を考えることは臆病でも何でもない、責任や。」
その日、僕たちは、たくさんの話を聞きました。
体罰の苦い思い出、保護者との口論、先輩先生とのつきあい方・・。
授業でのいきづまり、子どもの気持ちをくめなかったことなどなど。
そのほとんどが、失敗談でした。
最後に神田校長はこう言いました。
「まあ、そんなこんながあって今に至ったわけや。
わしは自分でも、だめな教員やったと思っとる。
けどな、『名選手、必ずしも名監督ならず』ちゅう言葉もあるく
らいや。
今までの失敗は校長としてのこれからの肥やしや。
わしも、やる。
君たちもやってくれ。
一緒に進もうや。」
ためになったなあ、、それが素直な僕の感想でした。
そんな神田校長を知る僕にとって、現代教育新聞「ニュースレター」
の記事は残念というより、ショックでした。
東京都が全国初の民間人校長起用を決めたというのです。
(その(2)につづきます)