秦の徐福の一行の来航が弥生時代の始まりという
はいつさんの御考えを読みました。
徐福の話は紀元前200数十年のころですよね。福
岡の板付遺跡は弥生前期の環濠集落の下の縄文晩
期の地層面から水田跡が発見され、モミも発見さ
れました。弥生前期はちょうど紀元前3世紀。時
代は徐福の話とぴったり同じ。だから徐福一行の
来航が弥生時代の始まりだと考えられるように見
えます。
でもこれを証明するには、徐福のいたという揚
子江下流域の稲作遺跡と生活道具などや、弥生時
代のもっとも古い遺跡である北九州の稲作遺跡生
活道具が一致しないといけません。こういう研究
成果をぼくはまだ聞いたことがありません。
それから始皇帝と徐福の話は、二人が東方に
「扶桑の国」という豊かな国があるということを
知っているという話が前提にあります。そしてこ
の時代の中国の教養人にはこれは常識でした。な
にしろかの孔子さん(紀元前500年代の人)も知っ
ていて、とても豊かで、中国の王を敬うことが篤
い国だと論語の中で言っているくらいですから。
そしてまた、日本列島(中国は「倭」の国と呼
んだり、「扶桑の国」と呼んだりしていますが)
の人が中国に行ったのは、かの周の初期の時代。
周の第2代の武王の即位に際して、倭人が香草を
送ったという記事が中国の歴史書にあるくらいで
すから。そしてこれは紀元前1100年ごろ。
縄文時代の日本の遺跡から中国の春秋戦国時代
の貨幣が出土したこともあります。これはちょう
ど孔子さんの時代ですね。
これほど昔から中国と日本とは交流があったの
です。そして中国では稲作はずっと昔から行われ
ていました。
ならば紀元前200年代の徐福が日本へ渡った最初
の中国人なのでしょうか?。秦の時代以前にも中
国は戦乱で荒れ、国々の興亡が続いた時期はたく
さんありました。周が出来た時も殷を滅ぼしてで
きたのです。この時、殷の人々の一部が朝鮮に
移ったとの言い伝えもあります。また孔子さんが
いた春秋戦国の時代も戦乱に明け暮れていた時代
でした。
この時期に海を渡って日本に行こうと考えた中
国の人々がいなかったのでしょうか。僕はいたと
思うのです。中国⇒朝鮮⇒日本という道筋で行っ
た人もいただろうし、中国⇒日本と、直接行った
人もいたと思うのです。その人々が徐々に九州に
勢力を広げていって、一定の地域を中国化(朝鮮
化でも良いですね。要するに弥生化)したあと、
海の向こうに豊かな中国文化圏の国があることを
徐福さんが知って、戦乱と秦の専制政治から逃れ
て、海の向こうの楽園を目指した。
これが徐福の話だったと僕は考えます。
ただ徐福一行が向かった先がすでに弥生化され
た地域だったか、まだ弥生化されていない地域へ
の新たな武装植民だったかはわかりません。
中国や朝鮮からの日本への植民は一度っきり
だったとは思いません。なん度も時間差を置いて
行われたのでしょう。
かの古事記・日本書紀で有名な「天孫降臨」の
お話は、壱岐・対馬にいた「海部=天族」が、豊
かな稲の国である葦原瑞穂の国(当時は北九州を
さしていました)を軍事制圧にかかった話です。
アマテラスの住む壱岐にも稲があったことは、神
話でも語られています。そしてアマテラスの孫の
ニニギが下った葦原瑞穂の国には、稲の神である
猿田彦大神がおり、双方の間に戦争が起き、猿田
彦が負けたことは、神話のとおりです。
つまり水田稲作を行う人々は数次に渡って繰り
返しやってきたのであり、先来の弥生人と後発の
弥生人との間に戦争があったということを、天孫
降臨の神話は物語っているのです。
徐福さんの話の、その一部であったのではない
でしょうか。
もちろん縄文時代から弥生時代への移行は平和
的に行われたのではなく、異なった文化を持った
人々の戦い・衝突の結果だったという御考えは大
筋においては正しいと思います。
※以上の天孫降臨のお話は、古田武彦さんの説に
よりました。
そうそう、もう1つ追加。縄文時代の三内丸山遺
跡のお話。ここが500人の村だという説は、ほとん
ど根拠のない説だということです。同時期にあっ
た住居の数は10〜20くらいだからどんなに多くて
も100人はいかないそうです。
そしてこの遺跡は縄文の前期。つまり紀元前
7000年くらい。そして九州から遠く離れた青森の
遺跡。紀元前200年くらいの徐福のころの、つまり
縄文時代の終わりのころの村の人口を推定するに
は、九州の同じ時代の縄文の村の遺跡を見ないと
いけないと思います。まあかなり少ないようです
が。
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