卑弥呼という漢字をつかって倭の女王の名を書い
たのは、作者の中国人陳壽だというはいつさんの
お話。卓見です。
 倭人が女王の名前を漢字で表すのなら「卑」と
いう卑しい文字を使うわけありませんものね。

 ただ「卑弥呼」という文字を「ヒミコ」と呼ぶ
かどうかは問題です。
 前に紹介した古田武彦さんは、これは「ヒミ
カ」と読むしかないと言っています。卑の字はヒ
としか音では読みようがありません。弥も音では
「ミ」です。でも呼は「コ」なのでしょうか。こ
の字の音は「コ」「カ」「ク」です。例えば魏志
倭人伝の邪馬台国の敵国である狗奴国の王は狗古
智卑狗ですが、学者はこれを「キクチヒコ」とか
「クコチヒコ」とか読んでいます。ちょっと変で
すよね。同じ狗という漢字を1つの名前の中で
「ク」とか「キ」とか「コ」と呼ぶのですから。
これは適当に読んでいるとしか思えません。特に
「キクチ」ヒコと読んだのは、そう読んだ学者が
狗奴国の所在地が今の熊本県(つまり狗奴国は倭
人伝では、女王の国の南にあると書いてあり、邪
馬台国の邪馬台をヤマトと読み、これを北九州の
山門(ヤマト)だとして、狗奴国をその南の熊本
だとした)と考え、この地の後の有力者が菊池氏
だったので「キクチ」ヒコと読んだのでしょう。
つまりいいかげん。
 一番正確な読み方は、3世紀の中国人が何と発
音したかです。これを調べていない。
 古田さんは魏志全体(倭人伝はそのほんの一
部)の「コ」としか読めない字をすべて調査し、
そして「呼」の字は何と発音するのかを読みの確
実な地名などで調べました。その結果は「カ」。
つまり卑弥呼は「ヒミカ」だと言うのです。漢字
で倭人が表せば、「日甕」。甕の字は普通や「カ
メ」ですが、神にささげる供物を入れる道具とし
て使用する場合は「ミカ」と呼びます。「ヒミ
カ」とは太陽のように輝く甕(ミカ)のこと。古
田氏は「ヒミカ」は、筑後風土記に出てくる「甕
依姫」(ミカヨリヒメ)の事だと考えているから
です。
 ではなぜ中国人の陳壽は「ヒミカ」という女王
の名を知ったのか。魏の皇帝が倭王に詔書を送っ
たのだから、当然卑弥呼は答礼の文書を送ったは
ずだ。いや、そもその魏に使いを送った段階で文
書を持って臣下の礼を尽くしたに違いない。詔書
の文字が読めるのだから倭人は紀元世紀に漢字を
つかえたということ。
 この卑弥呼から魏の皇帝への文書に「日甕(ヒ
ミカ)」と名前が書いてあった。これを原史料と
して歴史を書くときに、中国の皇帝に仕える歴史
官である陳壽は、中国を中心、倭国を周辺の野蛮
人とみなして、「日」の字ではなく「卑」の字を
つかったのではないか。
 これが古田氏の説です。「卑」の字を使った理
由ははいつさんのおっしゃるとおりだということ
ですが、卑弥呼の読みが違い、名前の意味も解き
明かされているところが違います。
 歴史って奥が深いですね。

ついでにもう1つ。邪馬台国は「ヤマタイ」コクで
はありません。魏志倭人伝のもっとも古い版で見
るとこの字は「壱」。つまり「イチ」です。
「イ」とも読めます。ようするに邪馬壱国。「ヤ
マイチ」国か「ヤマイ」国。ヤマは「山」。イは
「倭」。「ワ」ではなく「イ」と読みます。有名
な金印の文面の「漢委奴国王」の、「委」です。
「倭」は当時の中国人にとっては「イ」と発音す
るようです。要するに「邪馬壱国」とは、倭国の
中の山がちの地方という意味の国名。
 ではなぜ学者は「壱」を「台」にしたのか。そ
れは魏誌より後に書かれた後漢書では、「邪馬台
国」とあり、この「台」の字の異体字であり、天
子の宮殿を指す文字になっていたので、「邪馬台
国」と魏志倭人伝でも書きたかったのに、壱の字
と台の異体字は似ているので(ぜんぜん似ていま
せん。国語辞典や漢和辞典で見てください)間
違ったと判断したからです。では「邪馬台国」と
はなんと呼ぶか。文字どおり「ヤマダイ」国で
す。漢字で書けば、「山台(ただし異体字で天子
の宮殿を指す文字)」国。倭の天子がすむ山国と
いう意味になるのです。もしくは「山大倭」。大
倭国の山国。つまり陳壽の3世紀の時代には、
「ヤマイ」と自称していたのが、後漢書が書かれ
た5世紀には「ヤマダイ」と自称が変わったとい
うこと。(これも古田さんの説です)

 ついでながらどう考えても「邪馬台」を「ヤマ
ト」と読むなんて。学者ってひどいこじ付けをす
るものです。



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