こんばんわ。川瀬です。
 先週いただいたメールマガジンで、はいつさんは、陳
寿の書いた「魏志倭人伝」を

> その位置の書き方が、現代の僕たちから見ると、実に
あいまいに見
> えちゃうんだ。
> だって、こんな書き方がされてるんだから。
> 「・・・から南へ十日ほど船に乗り、一ヶ月ほど歩け
ば邪馬台国に着く。」・・。
> ねっ。すごくあいまいな感じでしょ。
> そもそも、倭人伝の作者、陳寿さんが日本の地理をど
のくらい正確
> に把握していただろうか・・ってことだ。

と評価されましたが、とんでもない誤解です。
 もっともはいつさんが上のように感じられたのは、現
代の日本の古代史学者の多くが「陳寿が書いた魏志倭人
伝はあいまいだ。しかしこれしか史料がないから使える
ところだけ使って、おかしいところはこっちで勝手に直
して使おう」という態度で学問をしているからだとは思
いますが。

 でもこれは学者たちが魏志倭人伝の記事を読み間違っ
たからですよ。うえの「・・・から南へ十日ほど船に乗
り、一ヶ月ほど歩けば邪馬台国に着く。」・・の原文は
こうなっています(書き下し文です)。

「南、邪馬壱国へ至る。女王の都する所。水行10日陸
行1月。」

 多くの学者は最後の「水行10日陸行1月」を「南に
水行10日陸行1月行くと女王の都につく」と読んだ。
あとはその南に行く起点の問題で論議が起こり、邪馬壱
国の前に書いてある「投馬国」からという説と、その前
に書いてある「不弥国」からという説と、さらにその前
の「奴国」からという説などいろいろある。
 でも「水行10日陸行1月」ではどれだけの距離だか
わからないから、『魏志倭人伝はいい加減だ』というこ
とになっている。

 しかしこの「水行10日陸行1月」は、魏の使いが行
程を発した帯方郡から女王の都までの『総行程』だと考
えたのが古田武彦氏。そして彼は邪馬壱国は、「不弥
国」のすぐ隣にあると読むのだと考えた。なぜなら
「南」としか書いていないのだから、「不弥国」の隣
だ。投馬国はその「不弥国」からさらに南の方向に水路
で20日の所。ただしこの「南」は初発の方向であって
ずっと南ではない(魏志倭人伝の中で場所がしっかりわ
かっている「対馬=対海国」「壱岐=一大国」「伊都
国」の方角記事を地図に照らしあわせて読めば、方角が
全て初発の方角しかさしていないことがわかる)。
 だから、「不弥国」からはじめは南にむかったすぐ隣
ということ。
 ではその「不弥国」はどこにあるのか。それは伊都国
から最初は東に進んで百里の所と魏志倭人伝に書いてあ
る。だから福岡県の糸島半島から海岸沿いに東の方向に
百里行ったところ。その隣に邪馬壱国はある。
 問題はその百里がどのくらいの距離かということ。
 1里は4キロだから400キロと現代人は考えがち。
学者もそうだった。これだと九州から遠く近畿地方に
いってしまう。だから邪馬台国九州説の人たちは、魏志
倭人伝の距離はいい加減と言わざるをえなかった。
 でも1里=4キロは唐の時代のこと。では魏の時代は
何キロになるのか。
 古田武彦氏は「邪馬台国はなかった」(朝日新聞社刊
・今は朝日文庫)でこう計算した。魏志倭人伝で実際に
距離がわかるところを何里と標記しているか。それを調
べれば魏の時代の1里が計算できると。
 結論は「1里=約75〜77メートル」。これなら百
里は7.5か7.7キロ。「不弥国」は糸島半島から
東、ちょうど福岡平野の西の入り口あたり。つまり女王
国は今の福岡・博多にあった。
 そしてこの1里=約75メートルというのは、中国の
周の時代の距離だったことは、のちに数学者の指摘で判
明。魏は漢から禅譲されて帝位についたわけだが、漢を
越える権威を得るため、漢とその前の秦が亡ぼした
「周」を復興すると呼号して国造りをすすめた。
 魏志倭人伝の記事を信用して読み、実際に地図にあ
たって計算した結果と、魏をめぐる歴史的事実の一致。
 女王の国は、北九州博多の地にあったことは、なんと
今から30年も前に一学徒によって明らかになっていた
のだ。
 ではなぜこの邪馬壱国の真実が認められず、陳寿の魏
志倭人伝はいいかげんとの認識がいまでも大手を振って
歩いているのか。
 答えは簡単。古田氏が学者ではなく、中世史が専門の
工業高校の国語の教師だったから。そして古代史学会の
主流をなす東大を中心とした、邪馬台国は近畿の大和で
卑弥呼は天皇家の祖先だとする学派の人々にとって、魏
志倭人伝を徹底的に信用する古田氏の学説は、かれらの
説をその根本から否定してしまっているからだ。さらに
古代史学会の少数派である九州説の学者は、魏志倭人伝
の距離はいい加減として勝手に女王国の場所を決めてい
たから、古田氏の研究は、これまた彼らの学説を根本か
ら覆していたから。

 考えてみれば魏の陳寿が日本列島のことをいい加減に
しかしらないと考えることはおかしいのです。あの志賀
の島の金印を倭の王に、漢の光武帝が渡したのは、陳寿
の時代からわずかに100年と少し前のこと。少なくと
も漢の時代、倭からは何度も使いが来ていた。中国の政
府高官が自国に朝貢してきた国がどこにあるのかも知ら
ないハズはない。そして魏の皇帝は卑弥呼の朝貢に喜
び、わざわざ皇帝の使いを倭に送り、卑弥呼に直接会っ
て金印と親書を手渡しさせた。だから魏の使いは実際に
女王の国に行っているわけで、当然詳しい報告書(天子
に対する報告書)があったはず。魏は漢から禅譲を受け
ているわけだから、漢の役所にある文書と役人をそっく
りそのまま受け継いだ。だいたい陳寿だってその漢の歴
史官の家に生まれ、その職についた人だ。陳寿が魏志倭
人伝を書くにあたって使った原史料こそ、卑弥呼に会っ
た魏の使いの報告書であったはず。
 魏志倭人伝はあいまいというのは、日本の古代史家が
作り上げた虚構だったのです。
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