だがヤマタイを亡ぼそうとする敵は魏ではなかった。
三国志魏史倭人の条にもあるように、ヤマタイには敵が
あった。狗奴国。
ヒミコが魏に使いを送ったのが魏の景初2年。西暦で
は紀元後238年。その9年後の正始8年、247年に
ヒミコは再び魏に使いをおくり、狗奴国と戦いになって
いる状況を知らせた。魏の皇帝は直ちに使者を派遣し、
詔書(皇帝の命令書)と黄幡(黄色い旗=魏の軍旗)を
授け、檄文を作って皇帝の命令を布告させた。
つまりヒミコは魏の権威を背景に、おそらく魏の皇帝
の停戦命令書を手に入れ、魏の軍旗とそれをささげ命令
書をもった魏の使いを、狗奴国に送ってもらい、戦いを
おさめたのでしょう。
呉と激しい戦いを繰り広げる魏にとって、呉の東にあ
る倭国の朝貢は、直接の軍事力にはならないものの、遠
く島国にいる夷てきが礼をもって帰服してきたのだか
ら、魏こそ中国の正式の王朝である証だと、おおいに吹
聴したことでしょう。しかもヒミコが使いを帯方郡に
送った時期は、魏の皇帝が三国の争いの中で中国から独
立していた帯方郡の
公孫氏(この地は倭国とも歴史的に縁の深い「燕」の故
地です。戦国時代の燕の貨幣が、日本の後期縄文時代の
遺跡からいくつも出ています)を討伐する戦いの最中
だったのだから。
考えてみれば、倭国がこのような動きに出たのは、す
くなくとも三度目です。
遠く紀元前12世紀に、殷帝国末期の動乱を制して、
周が建国し、中国の中心部(中原地帯とよぶ)をほぼ平
定し、周辺部の統一に動いていたとき、遠く越(おそら
くベトナム)と倭が貢物をもって朝貢した。越は雉を、
倭は香草を献じ、これが周が中国の正式の統一王朝だと
天が認めた証拠だとされ、以後、越の雉と倭の香草は縁
起の良いもとのされたという。
2度目は後漢の時。漢王朝が臣下の反乱で亡ぼされ、
その後の戦乱の中で、漢王室の一員であった光武帝が漢
を復興して中国を再統一し、北方の匈奴と激しい戦いを
繰り広げていたとき、倭国が再び朝貢した。おそらく光
武帝は歓喜に咽んだことであろう。周の例のように、天
が自分を正当な中国の皇帝だと認めた証拠だと。だから
彼は倭国を「倭奴国」と標記し、匈奴とは違って遠い昔
から中国を敬い従っている夷てきだと認定し、その王に
金印を与えたのです。
おそらくヒミコにもナシメにもこの2つの事件は、重
要な先例として脳裏に刻まれていたことでしょう。だか
らこそ、魏の統一戦争が完成に向かう時期に朝貢の使い
を送ったのです。自らの背後にひかえる強敵狗奴国との
戦いに勝つために。そしてまた、おそらく倭国と深い関
係にあった燕の公孫氏の滅亡は、倭国にとっての危機だ
との認識もあったことでしょう。
ねらいはドンぴしゃり。魏の皇帝は感激し、『親魏倭
王』の金印を与え、ヒミコが倭国(倭は1つの国ではな
かった。その中に多くの国があった。そして互いにいく
つかの連合国をつくって争っていたのです)の王だと認
めたのです。
とても計算された壮挙。
だがこれには、魏の皇帝が倭国の場所や国柄や歴史を
熟知しているからこそ出きること。魏の皇帝はヤマタイ
が古の周に香草を送った倭であり、漢の光武帝の即位式
に使いを送った倭奴国であることを熟知していたので
す。そして当然その場所も。
魏志倭人伝にはっきり書いてあります。女王の国に朝
鮮の帯方郡から行くには、水行10日陸行1月、距離にし
て一万二千里あまり。場所はおよそ、中国の皇帝に即位
し、夏の王朝をつくって中国をはじめて統一した聖天子
「う」王が、中国の杭州の西にある会稽山に諸侯をあつ
めて即位を宣言し。夷てきが中国に朝貢してくるときの
儀礼を定めた、まさにその場所(これを倭人伝は「会稽
東治」と書きました)の東にあたると書いているので
す。
魏の皇帝は倭国の場所を正確に知っていた。もちろん
陳壽も知っていた。
ヤマタイを幻の国にしてしまったのは、魏志倭人伝を
信用せず、勝手に自分の説にしたがって倭人伝の文章を
変えてしまい、果てしのない論争を明治いらい100年
以上も繰り広げている学者たちなのです。