では百済の聖明王が仏像と御経を献じた意味は何なの
でしょうか。これは538年や552年の朝鮮半島の情
勢を考えてみれば明らかです。
この時期は朝鮮では「三国時代」とよばれ、北の「高
句麗」と南の「百済」「新羅」の3カ国が鼎立してお
り、さらにその南部に、百済と新羅に挟まれた小国の連
合体である「加耶」諸国がありました。そして6世紀は
その最末期にあたり高句麗と新羅の連合によって百済が
つぶされつつあった時代です。そして倭国はその百済を
援助すべく次々と朝鮮半島に軍隊を送り、高句麗や新羅
と戦闘を繰り返していたことは、中国の史書や朝鮮の史
書、そして日本書記でも確認されています。
538年の6年まえ、532年は「加耶」諸国、また
の名前を任那諸国が新羅に併合され、百済と倭とを結ぶ
地方が敵によって占領され、倭と百済との同盟に危機が
訪れた時期でした。その6年後に百済の聖明王が倭王に
仏像と御経を献じたということは、倭との同盟を再強化
する意味があったのではないでしょうか。
また552年とはどんな時代なのでしょうか。その4
年まえの548年には高句麗は百済の王城を包囲し百済
は危機に陥ります。この時には百済・新羅・倭の同盟が
成立し、三国の力で高句麗の南の首都である平壌を攻め
て事無きをえますが、直ちにこの同盟はつぶれ、今度は
新羅が百済を圧倒して百済の首都漢城を攻め、百済は危
機に陥ります。そして倭の救援もむなしく百済は新羅と
の戦いに敗れ、聖明王は戦死するのです。554年のこ
と。そして百済の群臣は、倭にいた百済王子の百済帰還
を乞い、その帰国をもって百済はかろうじて露命をつな
いだのです。
552年とは、その新羅と百済の興亡の真っ只中。こ
の時に聖明王が倭に仏像と御経を送ったとしたら、友好
と来援を願ったものと解釈するのが妥当だと思います。
538年にしても552年にしても仏教伝来とされる
事件は、滅亡しようとする百済が倭に救援をもとめた事
件として捉えられべきです。
だとするならば、日本書記に伝えられるその後の仏教
をめぐる争いとは、信仰が問題なのではなく、百済を支
援するべきなのか、それとも高句麗・新羅と結ぶべきな
のかという争いだと解釈したほうが、意味がわかりやす
いと思います。つまり蘇我氏は百済派であり、物部氏は
新羅派。両者が戦闘を交えた結果、百済派が勝ち、倭国
は引き続き百済を支援して朝鮮半島の争いに介入するこ
ととなったのだと思います。蘇我と物部の争いを仏教を
めぐる争いであるかに記述したのは、日本書記編纂時の
脚色であり、この時の争いが新羅派百済派の争いであっ
たことを隠しておきたい意図があったのでしょう。書記
を編纂したのは、この蘇我氏と結びついた大王家の一派
をつぶして王位をとった天智・天武の子孫たちですか
ら。
ここで蘇我氏の由来についての興味深い説を紹介して
おきましょう。蘇我馬子の父である蘇我稲目の出自は不
明です。彼の父は蘇我の高麗(こま)であり、彼らは大
和南西部に基盤をもつ葛城氏の出であると主張していま
すが、どうもそのあたりが良くわかりません。稲目の父
の名前が「こま」ということや、蘇我氏が東漢氏などの
百済系渡来豪族を配下に持っていたことなどから、彼ら
は百済の王族の出ではないのかという説があります。
百済は人質として王の息子を倭に送っていたようです
から、その臣下として百済の貴族が倭に来航し、倭の貴
族の一員となっていたとしても不思議ではありません。
蘇我氏と仏教とのつながりは、こんなところにあるかも
しれないのです。