でもその前に、22号ではいつさんが指摘された、淡
海三船が歴代の天皇の中国風のおくり名を付けたという
話が意味するところについてちょっとお話しておきま
す。
この話は「歴代の49人の天皇に中国風のおくり名が
ついていなかったので奈良時代後期になって始めてつけ
た」と言う程度の簡単な問題ではありません。
758年に聖武天皇・孝謙天皇にこれを贈ったのが始
まりで、これより前の神武天皇から以後の天皇の漢風諡
号(しごう=贈り名)は、762‐764年に淡海三船(おう
みのみふね)により一括撰進されたというのが定説で
す。
758年というのは、聖武上皇が死んで2年後でその
娘の孝謙天皇が一族の淳仁天皇に形だけは位を譲って、
実際は上皇として影で権力を動かし始めた時です。これ
はちょうど孝謙天皇の妹と天皇家一族の王との間に男の
子が生まれ、天武天皇から続く王朝に直系の後継ぎがで
きた時。以後彼女は天皇を裏から操りながら、自分の甥
が天皇位を継ぐのに邪魔になる王族を次々と殺して行
く。
こんな時に亡き父と自分自身に中国風の贈名をつけた
ということは、父聖武天皇と自分につながる一族だけが
日本の正統王朝を継ぐものだということを内外に知らせ
る意図があったと思う。そして762年から764年というの
は、彼女がその淳仁天皇を排斥して再度天皇位に復帰し
ていく過程。
言ってみれば淡海三船が歴代天皇に聖武天皇や孝謙天
皇と同じ中国風の贈名をつけたということは、再度自分
の血脈だけが日本の正統の王朝だということを改めて内
外に知らせたということを意味します。
でも、この事実。764年に至るまで大和の天皇家の歴
代天皇には中国風の贈名がなかったという事実は、さら
に衝撃的な事実を浮かび上がらせます。これは多くの学
者はほとんど指摘していない問題です。
どういうことかというと、倭の王は少なくとも3世紀
以後は中国風の一字名を名乗っていたのだからその死後
の名である贈名が中国風でないのはおかしいということ
です。
有名なヒミコさんは、3世紀の倭の王ですが、日本的
な名前しか持っていません。でも彼女の娘の壱与さん
は。これは中国風の一字名です。これを学者は台与の間
違いと解釈して「とよ」と読みますが、前に紹介した古
田武彦氏は、「壱」は国名でこの場合は氏名で、邪馬壱
国の壱だとし、与が字名(あざな=いわゆる個人につけ
られた名前)と考えました。中国風の姓と名が各1字な
のです。これには異説があるとしても、少なくとも次の
4世紀から5世紀のいわゆる「倭の五王」はみんな中国
風の一字名なのはたしかなことです。
「倭王武」「倭王讃」など。おそらく「倭武」「倭
讃」と名乗っていたのでしょう。
つまり倭国の王は古くから中国文化にかぶれ、中国の
忠実な臣下として振舞っていました。ならばその王の死
後の名前である贈名も中国風であってよいわけです。
でも古事記や日本書紀で明らかなように、彼らには日
本風の贈名があっただけでした。有名な神武天皇だっ
て、彼の正式の贈名は「神倭磐余彦尊」(かむやまとい
われひこのみこと=とおとい倭の国の中のいわれの地方
の王)。倭王武ではないかと定説では考えている雄略天
皇は、「大長谷若建尊」(おおはせのわかたけのみこと
=偉大なる長谷の地方を治める若き勇猛な王)という贈
名しかありません。
ということは大和の「天皇」たちと倭の五王とは別
人。中国風の名前を名乗っていたのは大和の「天皇」た
ちではないということになるのです。
そういえばこの神武天皇の日本的な贈名を良く読め
ば、かれが倭国全体の王だという意味にはとれません
ね。倭の中の磐余の地方の王としか読めないのです。そ
して雄略天皇の名前も単に長谷地方の王でしかない。
つまり8世紀の後半になって始めて大和の国の歴代
「天皇」の贈名として中国風の贈名が淡海三船によって
作られたということは、大和「天皇家」が名実ともに日
本全体の王となったのは、まさに8世紀の後半になって
からだということを意味している可能性が高いのです。
ではそれまで「倭王」を名乗り、長い間、中国の南朝
の天子に臣従してきた倭王、そして「日出る国の天子、
書を日没する国の天子にいたす、つつがなきや」と隋の
天子に書を送って激怒された倭王とはどこの誰なのか。
それは大和の「天皇家」ではなく、九州は博多に都す
る九州天皇家だったのだというのが古田武彦氏の結論で
す。
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川瀬さんのHPは下記です。
URL http://www4.plala.or.jp/kawa-k/