結局、藤原氏の陰謀に行きついた理由は、「天皇はお
かざり」という認識に端を発しています。
でもこれは間違いだと思います。
確かに日本の天皇は中国の皇帝などに比べれば大きな
権力を持っていません。天皇は皇帝と違って、自分が勝
手に任免できる官僚を持ってはおらず、有力な貴族の代
表・筆頭という感じがします。常にどの時代も、有力な
貴族の賛同なしには政治ができないからです。
でもそれは「おかざり」ということととは違います。
第1に、最高権力者といわれている蘇我氏や藤原氏で
も、その権力の行使は天皇および天皇家の支持があって
のことでした。
蘇我氏は、その出自が不明です。一応、古来大和天皇
家の后を出す家柄の有力な貴族である葛城氏の一族と自
称していますが、これは婚姻関係でそうなっただけで、
蘇我氏がどこから来たかがわからないのです。あまり有
力な貴族ではなかったみたい。
同じことは藤原氏にも言えます。鎌足は中臣氏という
祭祀関係を司る中小豪族の出ということになっています
が、はっきりしません。記録に残る彼の官職も低いもの
です(最高位が内大臣。これは祭祀関係の最高位であ
り、政治の最高位ではありませんし、彼の死後送られた
大織冠という冠も、名誉的なものにすぎないのです)。
蘇我・藤原どちらも、どのようにして有力な貴族に
なったかというと、天皇の后を出す家柄となり、それを
独占することで、有力になったようです。
独占と言いましたが、その独占は、蘇我・藤原が自ら
独占したのではなく、天皇家の方から選んで独占させた
というのが正しいようです(王位継承の安定による政治
の安定のために)。
蘇我入鹿の事件でいえば、この時天皇候補は三人いま
した。聖徳太子の息子の山背大兄皇子。皇極天皇の弟の
軽皇子。最後は、じょ明天皇の息子の古人大兄皇子(こ
れは葛城皇子・後の中大兄皇子の異母兄)。この三人が
天皇の資格を持った皇子の中の最年長組み。もしこの時
蘇我入鹿が「最高権力者」であるなら、彼が支持した古
人が文句なく天皇になるはず。そうならず、三者の争い
になったということ自体、彼が最高権力者ではないとい
う証拠です。
結局、軽皇子が古人を支持する蘇我本家を滅ぼすこと
で強くなり天皇になり、後に山背大兄一族も抹殺され
る。
決して蘇我本家も最高権力者ではないのですよ。
藤原氏も同じ、初めて藤原氏の女を母とする文武が天
皇位についた697年から、道真を左遷する901年ま
で、200年もの間、藤原氏と他の貴族との権力争いが
続いていました(実際には、その後50年くらい余燼が
くすぶりますが)。
では天皇って何でしょうか。
彼は支配階級の統合のための、支配階級が権力を行使
するための「権威」。「象徴」というのが適切でしょう
か。権力の根拠をあたえる権威として君臨してきたとい
うのが実態ではないでしょうか。その意味で、最高の貴
族であって、その貴族をも超える存在。
ここには「神」と極めて近しい関係が有ります。「生
き神」に近い雰囲気のある人々です。
そして権力の行使は、常に天皇と有力な臣下の合議で
なされるのが常でした。
日本の権力は、有力者による合議という形態をずっと
とっているのです(今もそうですね。もっとも天皇はそ
の合議には加わらなくなりましたが。)。
※天皇は「権威」であり、権力の「象徴」でもあるとい
うことを、天皇の位の継承の歴史をもとにはじめて明ら
かにした研究が、河内祥輔氏の「古代政治史における天
皇制の論理」(吉川弘文館)です。またこの認識に基づ
いて、摂関政治の虚妄を暴いた研究が、保立道久の「平
安王朝」(岩波新書)です。興味のあるかたはぜひご一
読ください。
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川瀬健一[kenichi kawase]
e-mail kenichis@lilac.plala.or.jp
URL http://www4.plala.or.jp/kawa-k/
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