公地公民に関する「カマフェスト」。とても斬新な
視点であったと思います。
「全ての土地を天皇のものとしてしまう大改革がどうし
て混乱もなく行われたのか」という視点が、今までの歴
史学では弱かったし、教科書なんどはまったくこの視点
すらなかったのですから、斬新な視点だと思います。

 この視点からもう一度、公地公民制の施行に関する歴
史を跡付けて見ると、そこには実は「政治的混乱」が
あったことが想像できます。
 公地公民制を宣言した大化の改新の詔書は、そのご実
行された形跡が見られません。なぜならそれを実行に移
す法令も見当たらないし、木簡などでも確認できないか
らです。
 法的に確認できるのは、701年の大宝律令。実に大化
の改新から50年以上たってからです。そして木簡など
で「国・郡・里」の制度が確認できるのが、670年代
以後の天武・持統朝以後のことになります。つまり大化
の改新からは30年くらいたってから。
 そしてこの二つの事実と大化の改新の間には、朝鮮の
百済の白村江での敗戦とその直後の壬申の乱があって、
公地公民制の宣言から実施までには、長い年月がかか
り、その間には、日本の国家・社会体制の激変ともいう
べき争いがあった可能性が見えてきます。
 また、はいつさんは「権力の独占禁止」などの措置を
鎌足がとったことが、改革への反感を押さえたものだと
考えました。
 この観点からみると、大宝律令においては、貴族・豪
族たちには、多くの特例措置がとられ、民とは違ってた
くさんの土地や民を、事実上「私有」していることや、
日本の律令では、中国の律令と違って、天皇の権力が大
きく制限されていて、上級貴族の合議制になっているこ
となど、公地公民制の実施にともなってさまざまな妥協
が行われたらしい跡が見うけられます。

 この意味で、はいつさんのご指摘はまことに的を射た
ものだと思います。

 公地公民制の施行以前は、豪族・貴族というのは自ら
が統治している地域の「王」でありました。だから彼ら
の「土地と民」とをすべて天皇のものにするという「改
革」は、彼らの地位を根本から覆し、彼らを「王」の地
位から、天皇の官僚へと変更せまるもので、どう考えて
も、抵抗なくして実施は不可能だと思われます。

 ただちょっと誤解があると思うのは、「個人の所有地
をなくす」という捉えかたです。当時は「個人の所有
地」という考え方が産まれ始めた時期です。では土地は
誰のものだったかというと、それは神のもの。それぞれ
の地方を治める「共同体」の神のもの。いわば共有地
だったのです。しかしその共有地が次第に、「共同体」
の長である「王」たちのものになり、王族以外の民たち
は、「王」の下でその土地を耕し、貢物として収穫物を
収めるという関係になり始めていました。
 だから公地公民制とは、この「王」たちのものになり
はじめていた「土地と民」とを、すべて天皇のものと
し、以後天皇以外のものたちは、天皇から土地を借りて
耕作し、貢物として天皇に収穫物を収め、「王」たちは
天皇の官僚として働き、その地位と仕事に応じて天皇か
ら報酬を受け取るものに変えようというものだったので
す。
 いいかえれば私有物になりかけていた土地と民とを、
天皇という日本列島の共同体の神の物に戻すという性
格、土地は私有物ではなく、公有=共有という形に戻す
という性格を、公地公民制はもっていたと思います。形
としては復古的なもの。強力になりつつある貴族・豪族
の力を一定程度削ぐというもの。
 ただ貴族・豪族の下にあった民たちにも「口分田」と
いう形で土地が渡されたことは、彼らにも事実上の「私
有地」が渡されたことを意味しますし、貴族・豪族が広
大な事実上の「私有地」を持ったことと合わせて、復古
的な形をとりながらも、事実上、土地の「私有化」を認
め、促進したのが、大化の改新の公地公民制だったと思
います。(事実、奈良・平安時代を通じて、土地は私有
制となる)
 だから「土地を天皇のものにする」ということは、社
会主義革命における土地の公有化・国有化とはまったく
逆のものであったと思います。

 ではなぜこれがなされようとしたかというと、これは
中国に隋・唐という皇帝の下での強力な官僚的集権国家
が誕生し、日本が一定の独立を保つとすれば、同じく集
権的な国家に変えないとあぶないからです。このことを
端的に表現した歴史的事実が白村江の戦いとそこでの敗
戦でしょう。

 ただ僕は、この公地公民制を巡る戦いを、違った視点
から見ています。古田武彦さんの「多元的史観」、大和
天皇家は天皇ではなく、当時天皇であったのは、ヒミコ
以来の伝統を継ぐ九州倭王国の王であったという見方か
らすると、この事件はどう見えるのか。
 大化の改新が行われたのは、大和ではなく、九州は太
宰府の倭王朝であったこと。そしてこれは645年では
なく、もっと前。少なくとも隋王朝成立の590年前後
から600年代始めのこと。そして公地公民制を敷こう
とした王は、あのアメノタリシホコ。隋の煬帝に「日出
ずる国の天子、日没する国の天子に書をいたす。つつが
なきや。」と親書を送った九州倭王国の王。法隆寺の釈
迦三尊像の光背銘にある上宮法皇のことではないでしょ
うか。事実日本には「国・郡・里」の制度の前に「国・
評・里」の制度があったことが木簡からわかっており、
これこそが倭王朝における公地公民制の施行の跡だと思
います。
 645年の事件は単に乙巳の変【いっしのへん】とい
う王位を巡るクーデターに過ぎません。のちの日本書記
を天武朝を継承する人々が作ったときに、自らの正統性
を立証する事件としてこれをあつかい、ここにアメノタ
リシホコの事跡をあてはめたのでしょう。(ついでにい
うと聖徳太子の事跡もアメノタリシホコの事跡。)。
 しかし600年代初めの公地公民制の施行は激しい反
発にあい、倭王国は分裂していった。九州倭王朝に反旗
を翻した一つの勢力がその親族である大和王朝。彼らは
隋王朝を継いだ唐王朝に朝貢して(遣唐使)唐に従うこ
とを表明し、唐と対決しようとした倭王朝とは一線を画
した。そしてもう一つ反旗を翻し唐についたのが、倭王
朝の親族である九州の大分を拠点とした豊の国の王朝
(その神が宇佐八幡宮)。
 しかし対立は決定的な破局に至る前に、倭王朝は親族
である百済王朝を復興させるために百済の旧臣を支援し
て、新羅=唐連合軍と全面衝突するにいたりました。こ
れが白村江の戦い。
 この国家存亡の危機に際し、倭王朝の王(史書では筑
紫の君、薩夜摩とあります)は親族である大和王朝の王
(この時は斉明天皇・正しくは大王。補佐するのが後の
天智)。や豊の王朝の王(大分の君・これが後の天武)
に応援を依頼し、彼らの軍を後詰として倭王朝の首都で
ある太宰府とその周辺の防衛に当たらせ、自ら軍を率い
て朝鮮に赴いた。
 この白村江の敗戦で倭王朝の軍は壊滅し、倭王も捕虜
となり、唐軍が太宰府に進駐し、唐の占領下で倭の再建
が図られることになる。
 しかし、その後の主導権(おそらく国家像も)をめ
ぐって有力者である大和の王と大分の王とが戦争になり
(これが壬申の乱)。大分の王が大和以外の王たちの支
持をえて(大和の範囲では美濃や尾張、そして伊勢の王
たちが支持した。また九州の主だった王たちや、関東の
王も支持した)大和の王である大友の皇子の軍を破り、
大和を滅ぼして日本の再統一を果たした。これが天武。
 かれは自らの正統性を図るために、大和の王の天智の
娘を后とし、大和の古い都である飛鳥に都を置いた。
 しかしこの過程で、朝鮮で新羅が唐と対立するように
なり、これとの関係で、唐は日本とは親密な関係を維持
したために、これと戦う必要はなくなり、アメノタリシ
ホコが進めようとした天皇への権力の集中の必要もなく
なり、諸王との妥協が図られた。この結果が、貴族・豪
族への特権の付与であり、政治的決定においては天皇も
含めた上級貴族の合議ということになったのでしょう。

 最後に補足しておきますが、藤原氏というのはこの一
連の争いの中で、基本的に大和の王朝とは別の動きをし
ていたのだと思います。その根拠は、藤原氏の氏神が、
関東の鹿島・香取神宮だということ。古田氏によれば、
関東は大和の支配下ではなく、九州の倭王朝の支配下に
あったということなので、鎌足は同じ中臣氏といって
も、やまとの中臣氏とは違って、関東に拠点をもった豪
族だった。
 大和の王が公地公民制の実施にそった動きをしている
かぎりではそれを支持して動いていたが、大和と九州
(実際は大分)の争いになったときには、九州を支持し
たのではないでしょうか。だから壬申の乱で大友側が敗
北した時に、この近江朝で大臣の職にあった中臣の一族
が没落したあとも、彼らは没落せず、天武朝において重
要や位置を占めていったのだと思います。
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川瀬健一[kenichi kawase]
URL   http://www4.plala.or.jp/kawa-k/

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