こんにちは。川瀬です。「天武の謎」おもしろかった
です。天武と元明が血縁関係にないとか天武はヒミコの
血を引いているとかの推理を背景に、古事記と日本書紀
の違いのなぞを解いていったのは興味深いやりかたで
す。

 でも僕はちょっと違う解釈をしていますので、それを
述べさせてください。基本的には以前お話した古田武彦
さんの説をベースにしています。古田さんは古事記は大
和大王家に伝わる歴史を記したもの、日本書紀は九州天
皇家を滅ぼし日本天皇位を奪った大和大王家が、九州天
皇家の史書である「日本紀」を手に入れて、それを自己
に都合のよいように書き換えて作ったものであると主張
されてきました。
  しかし最近古田氏は、天武と天智は血縁関係はな
く、天武は九州天皇家の別の分流である大分君の出であ
るとされ、白村江の敗戦を受けて九州が唐の軍隊の占領
下に置かれて九州天皇家が滅亡したあと、日本列島の支
配権を巡って、唐に協力した二つの勢力、一つは九州天
皇家の分流である大和大王家、他の一つは同じく九州天
皇家の分流でもある大分君(大分大王家といってもよい
かもしれない)の二大勢力がぶつかったのが壬申の乱だ
とされています(「壬申大乱」東洋書林2001年11月刊参
照)。

 この説を背景に見ると、古事記を選録させた元明天皇
は天武の后であった持統天皇と同じく天智天皇の娘です
から、滅ぼされた大和大王家の大王の娘ということにな
ります。つまり征服者である天武は、滅ぼした大和大王
家の大王の娘を妻とし、その間の息子(草壁皇子)を自
らの後継者にすることで大和大王家の権威も併せ持とう
としたわけです。
 しかし期待の息子草壁は早世し、後継ぎの文武は幼
く、しかも大津などの有力な対抗者がいたために、天武
の后である持統が即位し、中継ぎをして、ようやく文武
を即位させた。しかし彼もまた早世し、その子の聖武が
あまりに幼い故に、文武の母である元明が中継ぎとして
即位し、ついで文武の姉である元正がついで、なんとか
聖武に引き継いだわけです。
 この元明が中継ぎで即位した時の幼子聖武ですが、彼
は幼いというだけではなく、彼の母は皇族の娘(天皇の
娘、または王の娘)ではなく、一貴族に過ぎない藤原氏
の娘であったわけで、皇位継承者としての資格に欠ける
ものでした(この点は、河内祥輔著「古代政治史におけ
る天皇制の論理」吉川弘文館1986年刊を参照)。そして
彼の周りには天武・天智の血を引いた皇子たちがたくさ
んいたので、聖武が皇位を継ぐことは決定ではなかった
のです。
 だからこそ、聖武の祖母であり天智の娘である元明の
権威と、聖武の叔母であり天武の孫である元正の権威で
彼をまもらなければならなかったし、それでもまだ不足
なので日本書紀という歴史書を編纂させ、天武王朝こそ
古来からの日本列島の王者であったという歴史を捏造
し、なおかつ聖武こそが偉大な大和大王家の星である天
智の決めた政治の基本を継ぐものであるという宣言をし
なければいけなかったのだと思います。
 日本書紀とは天武の後継争いが続くなかで、聖武天皇
につながる一族こそがその正統の後継者であるというこ
とを示すために、天武こそが有史以来の日本列島の王者
であると歴史を捏造した書だったのではないか。だから
そこでは天武と大和大王家の天智は血縁者として書かれ
ているのでしょう。

 では古事記はいったい何だったのでしょうか。なぜ天
武の時に編纂が始まったものが、しかも天武のことは
まったく書いてない史書が、天武の後継者を巡る争いの
真っ最中に出現しなければならなかったのでしょうか。
(ここからは完全に私の推理です)
 私は、古事記の元が稗田阿礼に天武が誦習させた帝皇
日継と先代旧辞ということにまず注目します。帝王日継
ですから歴代の帝王の系図にあたるのでしょう。そして
先代旧辞は、歴代の帝王の事跡ということなのでしょ
う。誦習とは書物を繰り返して読んで学ぶことですから
読み覚えたということでしょうか。これは定説のよう
に、歴史書の基礎になる事跡をまず天武が整理しそれを
稗田阿礼に読み聞かせ覚えさせたということでしょう。
だからこれは大和大王家につたわる歴史を整理したもの
だと思うのです。
 しかしなぜこれが今ごろ歴史書として整理されて出て
きたのか。太安万侶が稗田阿礼の誦習した旧辞を元明天
皇が選録させたことになっていますが、真実は太安万侶
が天武天皇の遺勅を盾にして、天武が作らせた大和大王
家の歴史を元明の勅命によって作ったという形にしたの
ではないかと思うのです。
 理由は太安万侶の属する「太」という氏族の位置で
す。この氏族は「多」とも「意富」とも書きますが、そ
の祖先を神武天皇の息子の神八井耳命だと言います。こ
の人は神武が大和に来てから娶った三輪の大物主の神の
娘との間にできた息子の一人で、神武のあとを継いだ
「綏靖天皇」の兄にあたる王族です。つまり大和大王家
と同じく、九州天皇家の血筋と大和の三輪の王の血を引
いた大和天皇家の有力な一族ということでしょう。
 つまり大和大王家の有力な貴族の一員である太安万侶
が天武天皇の遺勅を盾にして、天武王朝などどいうもの
は、大和大王家の一員なんかじゃないぞということを言
外に秘めて選録したのが古事記だったのではないでしょ
うか。だから古事記は推古天皇のところで終わってい
て、以後の大王位争いの時代(つまり天智が出てくる
「現代」に直結した時代)の話は、皆が知っていること
として載せていないのだと思います。
 征服王朝の後継ぎをめぐる争いの最中に、そもそも天
武王朝は大和大王家の一員ではないぞという意味をこめ
て、大和大王家の歴史を記述した書として作られたのが
古事記。これでは以後歴史の闇に葬りさられようとした
のは無理ないかなと思います。



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