ところで話は変わりますが、はいつさんが51号で、
平城京のことを「唐の都のように、壮大で、永久的に使
える日本初の本格的な首都」と書かれたことについて一
言。
これは違いますよ。もっとも教科書にこう書いてある
からみんな誤解するのですが。
今の学会の定説は、平城京の前の都である藤原京がそ
れです。辞書(岩波日本史辞典)にはこう書いてありま
す。
『古代都城の一つ。奈良盆地南端に位置し,694(持統8)
遷都から710(和銅3)平城京に移るまでの都城。正式名称
は新益京あらましのみやこ。条坊制を確実に施行した最
古の都城。日本書紀には690年以降造宮の動きが見える
が,藤原宮域内にも条坊道路遺構があり,宮内出土の木簡
から条坊施工は天武末年,680年代に遡るとみられる。京
のほぼ中央に宮がある。職員令左京職条の坊令12人の規
定から,南北12条・東西8坊に復元し,東西は中ツ道・下
ツ道,南北は横大路と阿倍山田道で限られるとの説が有
力であったが,その外側でも条坊道路の延長が見つかり,
より大きな範囲を想定する説が強くなってきた。当初左
右京に分れておらず,大宝令で分化したとみられる。』
と。
この条坊制にそった都と言うのが中国の隋・唐の都と
同じ設計思想でできた都ということです。
この都はわずか20年あまりで「放棄され」て平城京
に移ったとされていたので、完成せずたいした遺構もな
いと思われていたので、「本格的都城」と考えられてい
ませんでした。教科書は古い30年以上前の認識で書か
れることが多いので、平城京が初の本格的都城と今でも
書かれているのでしょう。
最近の発掘の成果が辞書に記述に反映されています。
ではなぜ本格的都城を「棄て」て、新たに平城京を
作ったのでしょう。これはなぜ元明という女帝が位につ
き、さらに元正という女帝が継いだのか。そのなかでな
ぜ大きな都が作られたのかという文脈で考えて見る必要
があると思います。
この二人の女帝は、元明の息子である文武天皇の息子
(後の聖武)へ皇位をつなぐリリーフ天皇です。聖武が
幼かったからです。でもそれだけではありません、聖武
は正統な皇位継承者とは考えられていなかったからで
す。聖武の母の藤原氏という「氏」の女。当時の天皇は
両親とも天皇の血を引いている(出きれば皇子・皇女)
者であることが条件でした。文武には彼しか男の子が居
なかったので、彼に継がせるために、天智天皇の娘であ
り、文武天皇の母という「権威」を持つ女性に天皇を継
がせ、その間に後の聖武こそ天皇にふさわしいという既
成事実をつくる必要があったからです。
だから彼女は、日本書紀という歴史書と、平城京とい
うおおきな都、そして和銅開珎をつくり、彼女の皇統の
正統性を誇示したのでしょう。
でも藤原京が日本最古の条坊制をもった本格的都城と
いうのも嘘です。
最古のそれは太宰府です。
太宰府は「西海道を統括し,外交と防衛の任にあたる
ベく筑前国に設置された律令制下の官司」というだけ
で、何時できたものかまったくわかっていません。なに
しろ日本書紀ではいきなり出てくるのですから。
しかしその遺構は他の諸国の国府のそれとはまったく
違います。辞書にはこうあります。
『発掘調査の結果,1)7世紀後半創建の掘立柱建物群,2)8
世紀初頭造立の朝堂院形式の礎石建物群,3)純友の乱で
焼失した後に再建された礎石建物群(現地表面)を確
認。』
問題は2の8世紀初頭の朝堂院形式の礎石建物です。
朝堂院形式とは、平城京の中心である平城宮の建物の形
式で、中央の天皇が政務をとる正殿である大極殿があ
り、その南側に官吏が政務をとる朝堂院という建物が2
つ並び、これらをその南側の門を中心とした回廊がぐ
るっと囲むという形式です。そして太宰府のこの建物群
は平城京のそれとほぼ同じ規模なのです。
つまり太宰府は天皇の都の宮殿と同じ規模で同じ形式
の役所なのです。
しかし8世紀初頭にここにこんな建物を建てた記録は
ありません。
さらに問題は、1のその下にある7世紀後半創建の掘
立柱建物群です。ここには書いてありませんが、これも
2の建物群と同じ形式同じ規模です。つまり礎石を据え
たものではないという違いはあるにせよ、7世紀には太
宰府には、後の平城京のそれと同じく、天皇が政務をと
るために建物群があったということです。
つまり太宰府は都であった。
ではこれは誰の都なのか?。これは全くの謎とされ、
封印されてきました。だから宮殿の南に広がるであろう
条坊制にのっとった都のあとも、「これは都ではない」
ということでいまだにまったく発掘されていないので
す。
古田武彦氏は、これこそ古来の日本列島の正統の王朝
である九州の天皇家の都であると。
そしてこの都が太宰府という名を持っているわけは、
九州天皇家は中国の南北朝時代に南朝の皇帝の臣下であ
り、しかも南朝が北の「蛮族」に圧迫されてどんどん勢
力が落ちていることを回復するために、皇帝の代わりに
政治全般をとりしきる「太宰(たいさい)」を名乗って
いたからだというのです。
とすると、元明が平城京を作ったわけは、この九州の
太宰府に代わる大規模な都城をつくることで、吾こそは
日本列島の正統な天皇であると宣言したことになります
ね。
ただし太宰府の地下の朝堂院形式の都のあとも平城京
と同じく8世紀初頭だということは、いまだに九州の天
皇家も大きな力をもっていたということ。そして最近の
発掘結果は、711年の平城京遷都後も藤原京は破壊さ
れたわけではなく、かなり長い間都としての機能を保っ
ていたということ。
つまり、元明の孫である聖武に天皇位を継がせること
に反対する貴族の(おそらくは皇族も)一派が旧都に居
た可能性もあるということです。