「大仏は聖武天皇が長屋王の怨念と戦う最終兵器だっ
た」というはいつさんの指摘はさすがですね。従来の学
説では、長屋王事件と大仏建立とがつなげて理解されて
いませんので、聖武天皇っておかしな人ということに
なっていました。
 しかし「長屋王」の怨念とは何でしょうか。この点は
いつさんの追及は詰められていないと思います。無実の
罪で殺された人の魂は怨念となってこの世に残り、仇を
なした人に祟ると昔の人は考えていたとは良く言われま
すが、これは無実の罪で殺された人と同じ思いを抱いて
いる人がまだたくさん生きていて、その人達の「怨
念」、正確には「政治的意思」が何か切っ掛けがあれば
噴き出してきて、政治的な激変が起こるおそれがあるか
らこそ、「死者の怨念」と戦う必要があるのです。
 では「長屋王」の怨念、そして当時の多くの貴族や王
族が抱いていた「政治的意思」とは何でしょうか。
 これこそ、「聖武天皇は皇位を継承する正当な資格を
有しない」ということだったのです。
 はいつさんは聖武天皇の皇子が生まれてすぐなくな
り、彼には皇位を継承するものがなくなった、その時そ
れは長屋王が呪いをかけたからだという訴えがあり、そ
れで聖武天皇は長屋王を殺したといわれました。
 しかし聖武天皇には、この亡くなった皇子以外にもう
一人皇子がいました。その名を安積親王(あさかしんの
う。728‐744(神亀5‐天平16.閏1.13) 。母は夫人県犬
養広刀自。744(天平16)難波なにわ行幸に従う途上脚病
となり恭仁京に戻ったが,急死した。聖武の皇子として
即位を期待する貴族もおり,それを恐れた恭仁京留守司
〓藤原仲麻呂による暗殺との説もある。)。彼は皇太子
でわずか生後2ヶ月で死去した親王が亡くなった728
年に、彼に先立って生まれており、彼こそ聖武天皇の長
子であった。
 だから彼には皇位を継ぐ男子がいたのに、その皇子は
皇位を
継がずに17歳で死んだ。これは上の辞書の記述にもあ
るように、藤原氏の陰謀で片付けられてきたけど(長屋
王を讒訴したのも藤原氏と考えられてきた)、そうでは
ないのです。このことは、河内祥輔氏が「古代政治史に
おける天皇制の論理」(1986年吉川弘文館)で、す
でに明らかにしているのに、いまだに教科書にも取り上
げず、古代史家には、彼の説を無視する傾向が強いよう
です。

 この時代の天皇になる資格とは何か。それは父母とも
に天皇の子であるという条件を備えていることだという
こと。これは少なくとも5世紀には成立していた。しか
し聖武天皇はこの資格を持っていなかった。それは彼の
父である文武天皇が即位した時に、彼にふさわしい年齢
の天皇の娘が居なかったからです。その理由は簡単。彼
の祖父の草壁皇子(天武天皇の皇太子)が皇位につかな
いまま死去したが、息子(後の文武)が即位できる年齢
(成人)にたっするまで祖母(持統天皇)が代わりに天
皇になった。そして祖父の天武天皇の前を考えてみても
その兄の天智天皇の前は女帝が続いていた。つまり女帝
が続くと、天皇の娘が少なくなり、天皇の息子に娶わせ
ることができなくなるわけ。
 そういうわけで文武が即位した時には天皇の娘で年齢
があう女性がいなかった。そして次善の策である天皇の
孫娘(つまり王の娘)もいなかったのでしょう。しょう
がないから天武朝の功臣である藤原氏の娘を文武の妻と
した。そして生まれたのが後の聖武天皇ただ一人だっ
た。
 だから彼は生まれた時から、天皇を継ぐ資格を持って
はいないということが多くの貴族や皇族にとっては常識
的認識だったのです。(このことは文武が即位した時か
らわかっていたので、それで文武が早世したあと彼の母
や姉妹が即位して女帝が続いたときに、天武天皇と天智
天皇の権威を持ち出し、そして大規模な都や歴史書を編
纂することで彼のそして彼の子孫の権威を確立しようと
したことは前に述べた通りです)。
 したがって聖武天皇も皇位を継ぐにふさわしい男子を
儲けることが彼に任務であり、それができれば彼を正統
の天皇と認めようという雰囲気が朝廷の中にあったわけ
です。
 だが彼が即位するまでに2代も女帝が続いたので、彼
にもまた天皇の娘を后にすることができず、やむを得ず
彼もまた藤原氏の娘を妻にして、そして生まれた男子を
すぐ皇太子にして、これで皇位継承を強行しようとした
ら、その子がわずか2ヶ月で死んだというわけ。
 ではその兄である安積親王はなぜ即位できなかったの
か。彼の母が誰かを見ればすぐわかります。彼の母は天
皇の娘ではないし、王の娘でもない。そして藤原氏の娘
でもない。ただの中級貴族の娘です。だから朝廷の中に
は、彼は天皇にはふさわしくないと考える人が多かった
のです。
 これで聖武天皇は万事休す。
 でもこの夫婦はまだ若かったからこの後男の子が生ま
れる可能性はないわけではなかった。そこで彼は考え
た。将来生まれる子供のために(それが無理なら唯一の
男子である安積のために)、彼と彼の子孫に対抗して天
皇につく可能性のある皇族を根絶やしにしてやろうと。
 この当時聖武天皇の次の有力な候補者が長屋王なので
す。
 彼は天武天皇の孫。父は高市皇子,母は天智天皇の娘
御名部皇女。草壁皇子の娘吉備内親王が妃。彼自身も天
皇の息子と天皇の娘を母としているわけで、これだけで
も聖武天皇よりは皇位継承の資格では上です。しかも問
題は彼の妻。草壁皇子は天皇と同じあつかいを受けた人
であり、その娘を妻にもつ皇族は長屋王ただ一人であっ
たそうです。
 彼は当時45歳。朝廷では左大臣であって政治経験も
豊富。そして皇位継承の資格も十分で、しかも天皇の娘
である妻の吉備内親王との間には二人も男子をもうけて
いた。つまり、この二人の男子はまだ幼いが、聖武天皇
の残された唯一の皇子である安積皇子よりもより皇位継
承の資格という面では上だったということ。
 長屋王は実は長屋親王と呼ばれていたことが木簡から
わかっています。なぜ天皇の息子ではない人が親王を名
乗れるのか。それは彼の妻が内親王だからです。内親王
を妻に持つ「王」は、親王になれる。つまり彼自身が親
王となって皇位継承権を持つということ。しかも聖武天
皇の次には、長屋親王が天皇となり、彼と吉備内親王と
の間にできた二人の息子たちが成人に達するまで天皇を
勤める。このような構想が貴族・皇族たちにあったとい
うことなのです。
 だから聖武天皇は長屋親王一族を「皇太子を呪った」
罪を着せて殺したのです。しかも殺されたのは親王と妻
の吉備内親王、そして二人の間に生まれた二人の息子の
み。長屋親王の他の妻たちや子は殺されていません。

 こうやって聖武天皇は最大のライバルを消したので
す。しかも貴族・皇族の中に聖武天皇の一族が天皇位を
継ぐことに疑問を持つ人々が多数いる中で。
 この勝負に勝つには、聖武天皇と藤原光明子の間に男
子をもうけること。
 しかしついに二人の間には男子はできませんでした。
 738年。聖武天皇はついに藤原光明子との間の娘で
ある阿倍内親王を皇太子につけます。史上初の女性の皇
太子。もう彼にはあとがありません。なぜなら女性の天
皇は夫を持ちませんので、これで聖武天皇の一族が天皇
位を独占するのは終わりです。この年の秋に諸国国分寺
建立を彼が発願したとの説がありますね。
 そして744年。ついに聖武天皇唯一の男子であった
安積親王が死去し、聖武天皇の男系の血脈は絶えてしま
います。この頃ですね、彼が大仏の建立を発願したの
は。
 聖武天皇に男子が生まれず、唯一の男子すら若くして
なくなる。それに様々な天変地異。これは長屋親王の怨
霊のなせる技である。これを祈り伏せて、なんとか自己
の血脈を天皇位につけなくては・・・・。
 大仏建立にはこんな思いがあったのではないでしょう
か。

 でも聖武天皇の男系の血脈は絶えていましたね。これ
では大仏にすがっても「長屋親王の怨霊」を静め、彼の
血脈で天皇位を独占することはできません。

 実は彼には秘策があったのです。ちょうどこのころ、
彼の娘で伊勢の斎宮になっていた井上内親王が呼び戻さ
れ、天智天皇の孫である白壁王に嫁した。ねらいは何
か。二人の間に男子が出きることである。天皇の孫を父
とし、天皇の娘を母とする男子を。これが生まれれば聖
武天皇の男系の血脈は再び作られる。そのためには「長
屋親王の怨霊」を鎮めることが必要だ。これが大仏が作
られた理由なのでしょう。
 聖武天皇の男系の血脈の創造とそれによる皇位継承。
これこそが「大仏」という「最終兵器」に託された聖武
天皇の願いなのです。

 そしてこの聖武天皇が大仏に託した悲願の実現は娘の
阿倍内親王、後の孝謙天皇に受け継がれます(一度退位
して再度天皇位について称徳天皇と名乗った人)。彼女
は井上内親王と白壁王(おそらく彼も内親王を妻に持っ
たので親王になったのでしょう)との間に男子が生まれ
ることを仏に祈願し、そしてその息子のライバルになる
であろう皇族を根絶やしにするという父の悲願を継承し
たのです。これが大仏秘話の後編ですね。いわゆる道鏡
事件。
 



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