こんばんわ。川瀬です。道鏡事件の謎解きおつかれさ
までした。いろいろと新鮮な視点が提起されていて面白
かったです。いくつか意見がありますのでメールします。

宇佐神宮の謎

 はいつさんは宇佐神宮を「ヒミコ」に関係した神社だ
と推理しました。結論的には僕も同じですが、ちょっと
違う観点から謎に迫って見ました。

 1つ目は、なぜ九州の一地方の神社が、天皇の皇位継
承に出張ってくるのかという問題。なぜこの一地方神の
御託宣がそんなに重視されるのかということ。これ不思
議です。天皇家の祖神である伊勢神宮の御託宣なら理解
できますが、なぜ宇佐神宮なのでしょう。これを解決し
ないと宇佐神宮の性格は理解できません。

 2つ目は、1の問題に関係するのですが、宇佐神宮が
「中央」の政治に関わってくるのは奈良時代から。辞書
によると、719年の隼人の乱と752年の大仏建立、そして
769年の道鏡事件。この三つです。そして次の平安時代
になると833年の仁明天皇の即位の時から、天皇が即位
すると宇佐神宮に報告の使者が出されるようになりま
す。さらに859年、清和天皇が即位した翌年には、京都
の南の石清水の男山に宇佐神宮(八幡宮)の神が分霊さ
れ、石清水八幡宮ができます。そして以後は伊勢神宮に
つぐ天皇家の祖霊を祭った神社としてあつく尊崇されま
す。なぜ奈良時代から「中央」の政治に参加し始めたの
か。これも不思議です。

 3つ目は、神宮の神の問題。祭神は応神天皇・比売大
神・神功皇后。なぜ九州の神社が、大和天皇家の人物を
神として祭るのか。これも不思議ですね。そういえば平
安時代以後に、宇佐神宮の分霊を祭った石清水八幡宮が
伊勢神宮につぐ宗廟(祖霊を祭る廟)との地位を築いた
というのも不思議。だってこれらの3神は大和天皇家の
祖先の一人ではあれ、もっとも古い人ではない。比売大
神は誰のことやらです。

 宇佐神宮の謎を解くには、この三つを解決しないとい
けません。

 三つの不思議をつなぐキーワードは天武天皇だと思い
ます。古田武彦氏の説を援用すると、天武天皇は九州は
豊の国の王。白村江の戦いで九州天皇家が敗北を喫して
唐の軍に占領されたとき、その唐軍に協力して日本占領
を助けたのが天武、そしてもう一人が大和の王である天
智。二人とも九州天皇家の分家の長だったけど、唐に協
力して、本家の滅亡に手を貸した。そして唐の占領の終
了後に日本の天皇の地位についたのは大和の天智。しか
し彼の死後、天武は自らの武力を動員して、天智の子の
大友から天皇位を奪う。つまり天皇位を簒奪したわけ。

 宇佐神宮は豊の国の一宮。つまり宇佐神宮こそ、天武
天皇の祖霊をまもる神社だったのではないかという仮設
がなりたちます。

 この仮説は1つ目の謎を解き明かします。同時に2つ目
の謎も解き明かせます。
 719年・752年・756年の三つの事件はみな、
天武王朝の危機に直結した事件です。
 719年の隼人の反乱。同じ年に蝦夷も反乱していま
すから、日本の南と北の端の人々が反乱したというこ
と。天皇は元正天皇。甥である聖武が成人するまでのピ
ンチヒッターとして天皇をしていた。なぜピンチヒッ
ターかというと、聖武は天皇になる資格を兼ね備えてい
なかった。理由は彼の母が天皇の娘ではなかったから。
それで彼が大人になるまでに聖武が天皇になることに反
対の人々を納得させるか抑えつけるかが必要だった。ど
うしてかというと、聖武の父の文武は天武天皇と天智天
皇の両方の血を継いだ天皇として期待されたが若くして
死んだ。しかもそれは文武の父である草壁皇子も同じ
だった。天武・天智両天皇の血を引いた天皇をつくるこ
とで天武王朝を安定させようとしたのに、期待の草壁は
早世。しかたなく女帝を2代つづけて子の文武を即位さ
せたのにまたもや早世。こうなるとこの血統に皇位を継
がせることにはさまざまな所から反対が出てきた。皇位
を奪われた天智系も密かに狙っているし、天武系も草壁
以外の皇子とその子孫が皇位を狙っている。
 元正は聖武の権威を高めるため中国の都にならった平
城京を建設するとともに、日本書紀を編纂し、自分たち
の皇統こそが昔からの日本の王だということを誇り、こ
の皇統こそ正統だと宣言していた。そんな時に南北の辺
境の人々が反乱した。
 これは聖武に繋がる皇統を正統の王朝とはみなさない
という意味。しかも蝦夷と隼人の地は、大和天皇家の支
配下にあった所ではなく、本家の九州王朝の支配下に
あった所。これに続いて本家の中枢だった九州と関東が
反乱しては、聖武に繋がる天武王朝はつぶれる。
 こんなときに宇佐神宮の託宣がだされ、隼人平定に功
があったという。
 つまり天武系皇統の危機を救ったわけ。宇佐神宮は九
州王朝の分家の祖廟としての権威を持っていたから九州
地方には睨みをきかすこともできたのでしょう。

 また752年の大仏建立は、聖武天皇がついにその血
を引く男子を全て失い、皇統を維持する資格を失ってし
まい、多くの皇族や貴族の離反の危機に瀕していた時
に、仏の霊力に頼って乗りきろうとした事件。狙いは娘
の井上内親王と天智の孫である白壁王の間に男子が生ま
れることを願い、その男子に天皇位を継がせるために、
自身の権威を再確立しようということ。この大仏建立に
際して宇佐神宮が託宣を出し、建立に大いに貢献したと
いう。これも天武系皇統の危機を救った形。

 三つ目の道鏡事件は、これも天武系の危機だと思いま
す。井上と白壁の間に待望の男子ができ、そのライバル
となる天武系の皇族は謀反の咎で死罪になるか失脚した
が、その幼子が成人しない前に、聖武の娘である称徳の
命は尽きようとしていた。これを乗りきるために仏の加
護を願った事件ではないでしょうか。このとき称徳の意
思にそって道鏡を天皇にと託宣を出したということは、
これも天武系皇統の危機を救おうということ。

 宇佐神宮を天武天皇の祖霊を祭った神社だとすると、
それが関わった事件との関係が無理無く説明できます。
そして平安時代、仁明天皇以後天皇の即位の報告が必ず
宇佐に使わせられた意味も、また清和天皇の時に、宇佐
の分霊が京都の南に移され、以後京都の守りである宗廟
となった理由も理解できます。

 仁明は桓武天皇の子、嵯峨天皇の子。桓武天皇は、貴
族の期待を担って立太子した弟の他戸親王を殺して立太
子し天皇になった人物。他戸はあの井上内親王と白壁王
の息子。つまり天武系皇統の直系としての聖武系を継ぐ
人物だった。それを殺して桓武が天皇になったというこ
とは、再び天智系が天武系から天皇位を奪ったというこ
と。だから彼の時代は皇位を巡る争いが再燃。しかも他
の皇族はほとんど根絶やしになっていたから争いは桓武
天皇の子供達の中の争い。その争いは仁明が即位し、や
がて彼の息子が立太子して後に文徳天皇となったときに
決着した。
 この仁明の母は橘嘉智子。彼女の曽祖父は橘諸兄。彼
は天武天皇の孫。つまり仁明の即位は天皇が再び天武と
天智の両方の血を引いたということ。だから天武の祖霊
である宇佐に報告に行ったのですね。以後しばらくは仁
明の子孫が天皇につく。文徳・清和・陽成と。そしてそ
の後の光孝以後も全部仁明の子孫。
 宇佐の分霊の石清水八幡宮が伊勢神宮に継ぐ皇室の宗
廟となったというのもううなづけます。
 清和は歴史上で初めて成人まえに天皇になった人物
(9才)。理由は父文徳が早世したこと。仁明ー文徳と
天皇が続き、やっと皇統が安定したと思ったのもつかの
間、隠居して上皇となり自由に政治を動かそうとした文
徳が9才の天皇を残して早世。これは天皇家の危機です
ね。9歳じゃ子孫を残せるか不安です。そうなるとまた
皇位継承の争いが再燃する。それを防ぐために母方の祖
父である藤原基経が摂政になり補佐。清和の成人をま
ち、なんとか反対し貴族や皇族を抑え様と言うわけ。だ
から祖霊をまつっている宇佐神宮を都の近くにもってき
て、清和こそ天智と天武の血を引いた唯一の天皇の流れ
を継ぐ者だというデモンストレーションをしたのではな
いか。
 こう考えると、宇佐神宮が奈良時代以後「中央」の政
治に加わり、平安時代以後は伊勢神宮に継ぐ天皇家の宗
廟になった理由はきちんと説明できます。

 では三つ目の祭神の謎はどうでしょう。
 宇佐神宮の祭神で八幡大菩薩とうたわれたのは応神天
皇です。なぜ九州に大和の王が祭られるのか。
 応神天皇は、端的に云えば、九州の勢力によって(そ
の一部が宇佐が代表する豊の国)大和の王になった人で
す。彼の父仲哀が熊襲(=これは九州天皇家を示す日本
書紀や古事記での用語)を討って失敗して死んだとき、
九州天皇家と結んで彼の母の神功皇后は、大和に残った
勢力を打ち倒し、息子を王位につけたのです。大和には
仲哀の皇太子とその弟がいた。神功皇后はそれを九州の
勢力を頼んで倒したのです。九州から見れば、反逆した
大和に、本家に恭順する勢力を作るということ。その応
神天皇が生まれたのが古事記によると宇佐なのです。
 大和の天皇家は以後、この応神天皇の子孫が継ぎま
す。一度断絶しかかったが、その時に新たに大和の王に
なったのが、応神天皇5世の孫である継体天皇。天智は
この継体の直接の子孫です。
 この応神・継体の子孫である天智に代わって、豊の王
である天武が大和の王となり、そしてそれは九州天皇家
滅亡後のことだから、天武は天皇になったわけ。

 こう考えてくると、宇佐神宮の神が応神天皇と神功皇
后というのもうなづけます。宇佐の神が応神天皇など3
神になったのは、天武が大和の王になったときなのでは
ないでしょうか。自分も応神天皇の子孫なんだというこ
とを大和の貴族や皇族に示して安心させる。こんな意図
で宇佐神宮の神に応神天皇と神功皇后が入れられた。

 では元々の神は誰か。そのヒントは比売大神と言う女
神と、3人の神を祭るということ。3人の女神を祭った
神社が九州にあります。宗像大社。祭神は、田心姫神
(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市
杵島姫神(いちきしまひめのかみ)。三人とも天照大神の
娘。しかもアマテラスの孫が九州北部を征服するとき
(=天孫降臨)、その先遣隊として宗像に派遣され、そ
の周辺の島々を含めて治め、アマテラスの子孫を守れと
指示されたと神話は伝えています。
 つまり宗像大社の神は、九州王朝の祖霊であるアマテ
ラスの子孫の流れ。宗像氏は宗像の君を名乗った大豪
族。きっとこれも九州王朝の分家だったのでしょう。
 同じく分家の豊の君。そしてその祖霊をまつった宇佐
神宮。宇佐神宮は宗像大社と同じく海に面した社。宗像
は玄海灘。宇佐は瀬戸内海。きっとどちらの勢力も九州
王朝の海軍だったのでは。宗像の3女神は航海の安全を
守る神でもありますから。しかも宗像氏は天武天皇とも
関係が深い。天武の后の一人は宗像氏の出身であり、そ
の息子は高市皇子。壬申の乱で天武軍の総帥として戦
い、天智の息子の大友皇子の命を奪った人。

 宇佐神宮のもともとの祭神は、この宗像3女神だった
のではないか。それを応神天皇と神功皇后に変えるとき
に、3女神をまとめて「比売大神」とした。こう考えて
みたらどうでしょう。

 こうやっていろいろ見ていくと、宇佐神宮は天武天皇
の祖霊を祭った神社だったという仮設を立ててみると、
いろんな謎がどんどん解けていくような気がしますよ。
 そして最後に宇佐神宮が八幡神=八幡大菩薩という神
道の神と仏教の神を融合させた神をつくり、本地垂迹説
の先駆けを為したのもこれなら理解できます。
 八幡神が出来たのは、767年。八幡比売神宮寺がで
きた時。この時初めて神仏は合体し、宇佐神宮は宇佐八
幡宮となった。ときまさに称徳天皇が道鏡を法王につ
け、神道と仏教を融合させ、神仏の加護によって自らの
皇統の永続を図ろうとしていたとき。彼女の祖神である
宇佐神宮は、彼女と同じ意図の下に動いていたというこ
とです。
 日本で最初に仏教が伝わったのは九州。倭国の中心。
だから九州が神道と仏教の融合でも最初なのではないで
しょうか。

 宇佐神宮は九州天皇家の分家としての豊の王、天武の
祖霊を祭った神社。九州王朝の祖霊は天照大神。そして
その王の中の一人がヒミコ。宇佐神宮とヒミコも関係は
あるわけです。

(次のメールで道鏡事件の解釈を送ります)
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川瀬健一[kenichi kawase]
 http://www4.plala.or.jp/kawa-k/

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