こんにちは。川瀬です。前の続きのメールを送ります。

2:道鏡事件の謎

 道鏡を天皇にという神託の事件の主犯が、宇佐八幡宮
だというはいつさんの推理興味深く読ませていただきま
した。従来の説は、道鏡の陰謀か、藤原氏の陰謀か、称
徳天皇が愛に狂ったはてだとかいうもので、八幡宮を主
体としたものはなかったからです。
 ただ、本当に称徳は無関係だったのでしょうか。気に
なったので、事件の原典資料である、「続日本紀」の神
護景雲3年(769)9月25日の問題の称徳の詔を読
んでみました。
 この時代の詔は天皇の肉声が生々しく書かれており、
おそらく天皇が書記官に口述させた物だと思われます。
そこには清麻呂らを称徳が非難したくだりを以下のよう
に書いています。

『清麻呂は、その姉法均と悪くよこしまな偽りの話しを
つくり、法均は朕に向かってその偽りを奏上した。その
様子を見ると、顔色・表情といい、口に出す言葉とい
い、明らかに自分が作ったことを大神のお言葉と偽って
言っていたと知った。問い詰めた所、やはり朕が思った
とおり大神の言葉ではないと断定できたのである。』
(宇治谷孟訳「続日本紀下」講談社学術文庫より)

 これは原典資料そのもの。これによると称徳天皇は、
八幡宮の託宣の中身を知っていた、道鏡を天皇にせよと
言うものだと確信していたことがわかります。そして嘘
だと問い詰めた上で、誰と誰と画策して、託宣の内容を
すり替えたのかを確認したということです。
 やはり道鏡を天皇にするために宇佐八幡宮の神託を利
用するという動きの主犯は称徳なのです。

 またこのことは続日本紀の論述部分でも明らかに示さ
れています。論述部分では道鏡と彼に取り入ろうとした
太宰府の祭祀を司る官人が結託し、「道鏡を天皇にすれ
ば天下泰平だ」という神託が宇佐八幡宮から出たと道鏡
に報告し、道鏡は自信をもったと記し、主犯は道鏡だと
言いきっています。
 ところがそのあとにこんなことを書いているのです。

『天皇は清麻呂を玉座近く招き、「昨夜の夢に、八幡の
使いがきて【大神は天皇に奏上することがあるので、尼
の法均を遣わされることを願っています】とつげた。そ
なた清麻呂は法均に変わって八幡大神のところへ行き、
その神託を聞いてくるように」と詔した。』と。

 これは元の資料である詔をそのまま写したと考えられ
る部分です。神託を改竄した人々が後になって編纂して
書いた部分ではありません。
 これによれば神託事件の発端は、称徳に八幡神の夢の
託宣があったと称徳が言ったことであり、清麻呂に神託
の内容を確認に行けと命令したことから事件は始まって
いるということです。

 神託事件の主犯は称徳なのです。神託は一度しか出さ
れていないのです。その内容は「道鏡を天皇にすれば天
下泰平になる」。しかしこの神託を清麻呂らは称徳に伝
えず、『わが国家は開闢より君臣の秩序は定まってい
る。臣下を君主とすることはなかった。天つ日嗣には必
ず皇統の人を立てよ。無道の人は早く払い除けよ』とい
う託宣だったと報告したのです。称徳はこれを聞いて、
その言葉遣いは大神のものではない、そんな内容のはず
はないと問い詰めたということなのです。
 ではなぜ、彼女の意思を妨害した人々を厳罰に処さな
いのか。
 ここについても詔のあとの部分で明快に述べていま
す。

『またこのことを知っていて、清麻呂らと共に謀った人
がいることは知っているが、君主は慈しみをもって天下
の政治を行うものであるから、この度のことは慈しみ哀
れんで免罪とする。しかしこのような行為が重なった人
は、国法にしたがって処分するものである。このような
事情を悟って、先に清麻呂らと心を合わせ、1つ2つの
ことを共謀した人たちは、心を改めて、明らかに貞しい
心をもって仕えるようにせよ』と。
 要するに今回の件は見逃すと言っています。まるで彼
らが称徳に反逆した心情を理解し、それゆえ慈悲の心を
持って許すとでも言っているようです。そして今後は明
らかに清い心をもって、称徳の心にそって仕えよと命令
しています。さらにこの文の後ろで、清麻呂と法均につ
いては、自分に忠実だと信じて様々な特典を与えたのに
裏切ったゆえ、その特典を剥奪すると述べています。
 清麻呂と法均の罪は、天皇の側近としての信頼を裏
切ったことにあるのであり、神託をすりかえたことには
ないのです。
 神託にかかわる事件は不問に付されているといってよ
いでしょう。

 称徳はなぜ道鏡を天皇にしようとしてたのでしょう。
そして何故天皇の側近も含めた臣下たちはこれを阻止し
ようとしたのでしょう。さらに臣下の動きを知った称徳
が何故彼らを厳罰に処さなかったのでしょう。そして臣
下に反対されても道鏡を天皇にする動きをなぜ強行しな
かったのでしょう。

 この点については、河内祥輔氏が「古代政治史におけ
る天皇制の論理」(吉川弘文堂)で詳しく展開していま
す。それによれば、称徳の目的は、彼女の父聖武が、そ
の娘の井上内親王と天智の孫の白壁王の間にできた男子
を次の天皇にしようとした、その遺言を実行するためと
いうこと。この期待の皇子は他戸親王。だが彼はまだ幼
年で天皇にはなれない。そこで他戸のライバルを称徳は
全て抹殺。天武系の皇子やその子供たちをみな、謀反の
罪で死罪にしたり流罪にし、彼らを支える貴族の勢力を
削いだ。この中には称徳の異母妹である不破内親王とそ
の息子まで入っていたのです。
 でもこれで称徳は安心できなかった。なぜなら聖武系
皇統に対する貴族の不信感は根強いものだったからで
す。天武の子、草壁は若くして世をさり、息子文武は
せっかく天皇の資格を認められていたのに、たった一人
しか息子を残さず、しかも彼は母が天皇の娘という天皇
の条件を満たさなかった。その息子である聖武も天皇の
条件を満たす男子を一人ももうけることなく死去し、結
局聖武とその娘称徳にいたる皇統は安定した皇位継承を
1回も実現できず、血で血を洗う戦争を巻き起こしただ
けだったからである。もう貴族は飽き飽きしていた。
 ということは、他戸が成人しても貴族が彼を天皇に推
戴するとは限らない。だから称徳はライバルをすべて抹
殺したが、それでも貴族たちを信じることができなかっ
た。他戸が成人するまで称徳が生きておれば何としても
かれを天皇にするために奔走することはできる。しかし
すでに50代後半になっていた称徳の余命はそれほども
たない。
 そこで称徳は信奉する道鏡を朝廷の上に据えること
で、他戸親王を護ろうとした。
 これが河内氏の説です。

 ではなぜ称徳はこれを阻止した臣下たちを厳罰にしな
かったのか。そして道鏡を天皇につけることを強行しな
かったのか。
 ここからさきは私の推測です。
 宇佐神宮神託事件で、称徳は、臣下の人々の根強い反
対があり、それは彼女の側近までも含んでいた事実に驚
愕したのでしょう。強行突破は無理だと。そしてまた捏
造された神託の文言、皇統に連なるものしか天皇になれ
ないという文言は、彼女がやろうとしていたことの破天
荒さに改めて目を覚まさせたことでしょう。しかし同時
に、貴族たちが、天皇は天皇の血筋を引いたものしかな
れないという原則を堅持しているということは、すでに
その条件、しかも厳密には父が天皇、母が天皇の娘とい
う条件に最も近い皇族は、すでに他戸親王一人になって
いたのだから、自分が死んだら他戸親王以外に天皇につ
く人物はいないと、貴族たちも認めざるをえないと、彼
女は確信したのではないでしょうか。
 だから彼女は彼女に反対した人々を許した。ただ側近
で彼女を裏切ったものたちのみ処罰した。それも厳罰で
はなかった。そして道鏡を天皇にすることは諦め、数年
後に世を去ったのだと。

 この推測は次の事実でも確認できます。称徳が皇太子
を定めないまま死去した時、貴族たちが一致して天皇に
選んだのはあの白壁王。光仁天皇です。彼は息子の他戸
親王が成人するまでのピンチヒッター。当然皇太子には
他戸親王が立てられました。結果として称徳の願いは実
現に向かって動いたのです。天智と天武の両方の血を継
ぐ、聖武天皇の血を継ぐ男子を天皇に据えると言う願い
は、あと一歩のところまできたのです。貴族たちの多く
がそれを承認したのですから。

 あの道鏡を天皇にと言う神託を宇佐八幡が出した理由
は、称徳に強制されてではなかったでしょう。宇佐神宮
は彼女の祖先、天武天皇の祖霊を祭った神社。それは称
徳にとっても祖霊を祭る宗廟だったのです。宇佐神宮は
奈良時代、天武系皇統・とくに聖武に至る皇統の危機を
何度も救おうとしました。だから今度も救おうとして神
託を出したのではないか。その意図に、神道と仏教を融
合させた宇佐神宮が僧侶を天皇に据えることで、自己の
権力を拡大しようというはいつさんが考えた意図が混
ざっていた可能性は否めませんが。

 ともかくも聖武・称徳の父と娘の二代にわたる願い
は、道鏡事件の頓挫にもかかわらず、実現しようとした
のです。その夢を打ち砕いたのは、他戸親王の腹違いの
兄。白壁王の長子で、後に桓武天皇となった人物。桓武
天皇は、天皇家・貴族層全体の思いを打ち砕いて天皇位
を奪いとったのですから、その人生は苦難に充ちたもの
になったのは当然です。でもこれは後の世の話しです。
 
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川瀬健一[kenichi kawase]

 http://www4.plala.or.jp/kawa-k/

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