徐福伝説について、興味深く読ませていただいております。
 春庭の日本事情の授業で、「自国と日本との交流史」という
発表を行い、徐福は、留学生にも人気のある人物です。

 これまでに何度かの留学生の発表で、中国にある徐福の生ま
れたとされる村の紹介とか、面白い発表をきくことができまし
た。

 留学生に注意していることは、徐福は、今のところあくまで
も伝説上の人物であって、実在が確かめられたという研究はな
いという点です。

 司馬遷の『史記』の中に、始皇帝の命を受け、数千人を従え
て秦から東方に船出した人物が徐福であると紹介されています

 司馬遷が記述した当時から、徐福はすでに伝説的人物でした

 始皇帝が実在したことは確かです。が、徐福が実在の人物で
あったことは確かめられていません。

 伝説によると「平原広沢」に漂着。その土地に定着し、徐福
は「平原広沢」の王となり中国には戻らなかったといわれてい
ます。

 紀元前6世紀から紀元後2世紀にかけて、大陸から移民が日本
にやってきて定住するようになり、大陸文化流入を行いました


 春庭は、徐福を「大陸からの文化流入を象徴する人」として
みなします。
 はいつさんの紹介による徐福は、どんな人物像になるか、楽
しみです。

 日本の弥生文化のはじまりについて。現在の考古学的研究で
は、紀元前6世紀から弥生文化が縄文文化と併存する形ではじ
まったという説が、最新の学説として有力です。

 また、弥生文化人は、縄文文化人を戦いによって滅ぼして覇
者となったのではなく、弥生文化人が持ち込んだ病原体ウィル
スによって、縄文人の人口が激減した、という病理人類学的研
究も定説となりつつあります。

 日本に弥生文化稲作文化が伝わったのは、徐福の「平原広沢
」漂着より300年ほど前のことになります。
 秦の始皇帝は、紀元前3世紀の人ですから、始皇帝が徐福に
命じて、「不老長寿薬」探索に派遣したことが、日本の稲作文
化のはじまりに影響を与えた、ということはできません。

 徐福が漂着した「平原広沢」が日本であるという証拠はどこ
にもないのですが、仮に日本各地に残されている「徐福到着の
地」の伝説が本当であったとしても、それは、何度かあった大
陸からの大移民到着のなかのひとつを象徴しているのかもしれ
ません。

 おそらく、大陸、また朝鮮半島から、移民は段階的波状的に
日本へ入ってきたのでしょう。
 その漂着の土地は、九州か、出雲か、また他の土地かもしれ
ません。日本各地に「徐福が移住してきた村」があります。

 弥生時代が秦の始皇帝の時代から始まった、という説は現在
では通用しなくなっておりますので、そのことにだけ留意すれ
ば、大陸文化の日本への流入を教えるとき、徐福はとても興味
深い伝説上の人物と思っております。

 では、今後の展開を楽しみに。
 春庭 


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