73歳のおじいちゃんからご意見(お話)を頂いたんです。
このおじいちゃんが子どもだった頃のお話でした。
紹介させてもらいます。
「私が子どもの頃は給食がなく、学校にお弁当を持参していたのです。
ほとんどの子が「日の丸弁当」(編集者注:梅干しだけがおかずの弁当)だったです。
たまに、朝のみそ汁の具(おいもなど)を残し、それを弁当に入れていくのが楽しみでした。
今考えると何ともわびしい弁当だけれど、誰も恥ずかしいなんて思いはしてません。
でも、学級の中にお弁当の中身を隠しながら食べている子がいました。」
ここまでのお話で僕はこう推察したんです。
「ああ、梅干しさえもない、もしかすると空っぽの弁当箱なのかもしれない。」
「ほとんどが貧困の生活を送る、その中でもさらに貧しい生活を強いられた子どもなんだろうなぁ。」
で、続きはこうでした。
「その子は地元で名士の子でした。りっぱなおかずを隠すように食べていました。」
僕は本当に意表をつかれたんです。
ここでお話が終わっていたので、すぐに質問を発信しました。
「りっぱなおかずのことで、級友からいじめられるなどということがあったのですか?」
「または『ぜいたくは敵だ』みたいな感覚があり、とても見せられなかった、そんな状況ですか?」
お答えを頂きました。
「いいえ、名士の子をいじめるなんてことは当時考えられませんでしたし、そんな事実もありません。
それに、子どもの弁当ぐらいでぜいたくは敵なんて雰囲気でもありません。」
「ほとんどのことは忘れてしまったけれど、このことはしっかり覚えています。」
おじいちゃんにとって半世紀以上前のことですよね。
その当時の自分が日の丸弁当だったこと、これは記憶に残っていて当然だとも思うんです。
でも何故、りっぱなおかずを隠していた友人のことまで鮮明に残っていたんでしょうか?
そして、なぜこの話を僕の所に届けてくれたんでしょうか。
僕には、その質問をすることが出来ませんでした。
おじいちゃんのお話は、僕に「考えなさい」と言っている気がしたからです。
そこで僕なりに考えました。
僕たちは今「りっぱなおかず」を隠すでしょうか?
「ブランド商品」「高学歴」「高収入」「資格」「名門校」「大企業」「肩書き」。
一見りっぱに見えるこれらの「おかず」を求め、隠すどころか見せつける、そんな世の中。
見せつけることに慣れきった僕たち、もっと言えば見せつけることを目標にしてしまった僕たち。
おじいちゃんは、このことに対して批判しているのではないでしょうか?
そして、僕にこの話を送ってくれたのは、それが「教育問題」だと言いたかったからだと思うんです。
1999年11月22日、わずか2歳の女の子が殺害されました。
非常に痛ましい悲しい事件です。
警察の発表によると、その背景に「『名門』幼稚園の受験をめぐるトラブル」があったようなのです。
この犯人には「名門」という一言が殺人さえも肯定させる「りっぱなおかず」に見えたのでしょう。
そして、それを「りっぱなおかず」だと見せつけたのは、だれだったのでしょうか?
もちろん、いろんな要素があるでしょう。
皮肉な話ですが、今、犯人の背景などを追いかけている「マスコミ」もその一人だと思うのです。
「名門幼稚園」という珍妙で空虚な言葉は現在もマスコミを通じて流され続けています。
僕たちが「りっぱなおかず」がほしいと思う心を捨て去るのは難しいと思うのです。
けれど、教育によって「りっぱ」の中身を考える子を育成することはできるはずです。
おじいちゃんのお話は僕らへの問いかけであり、ヒントであり、そして答えなのかもしれません。
ありがとうございました。