その若者は日本サッカー界の期待の星なのだそうです。
すごく積極的なプレーをするオリンピックの選手候補なのです。
しかし、オリンピック予選中に調子を落とした彼は控え選手に回されました。
そしてある試合の前半、彼はプレーすることなくベンチにいたのです。
その時の心境をインタビューされて答えたものなのです。
彼が「得点できなければいいな」と言ったのは、何と味方のことなのです。
味方が得点できなければ、控えの自分に出番が回ってくる、そう言っているのです。
つまり彼にとってはチームの勝利より、自分の活躍が大切だと言ったのです。
それが彼の本音なのでしょうか。
おそらく彼は一流のサッカー選手になるために想像を絶する苦労をしてきたのだと思います。
僕ごときが、彼の生き方に異論をはさむ余地はありません。
でも、すごく衝撃的だったのです。だから考えさせられました。
彼にとって味方とは何なのでしょう。
少なくとも味方であっても仲間ではない、と感じてしまうのです。
味方のミスが自分の利益になる。
だから、味方のミスを願う。
実は、この考え方は子ども達にとって日常化してもおかしくない状況なのです。
多くの子が15歳で経験する高校入試。合格する枠が決まっています。
だから、級友のミスは自分の利益になってしまうのです。
それが現実のシステムです。
しかし、他人のミスを願うのか否かは、大きく違うと思うのです。
深層心理がどうであれ、そう願うことの悲しさを自覚するか否かが、生きていく上での鍵だと思います。
人間は結局、自分自身の心を完全に理解できるものではないと思います。
ならば、こう生きたいという理想像を「たてまえ」と呼ばずに「本音」と呼んでもいいのではないですか。
「きれいごと」と呼ばれる行為や思考は、実は「本音」なのかもしれません。
僕の知り合いのご住職さんがこう教えてくれました。
「合格祈願でお参りする人がいるでしょ。あの願いは神様も仏様も絶対かなえてくれませんよ。
だって、あの願いは『誰か自分以外の人を落として下さい。』って言ってることなんですから。
頼まれた神仏も驚いているはずですよ。」
たとえ神仏が存在しないものだとしても、それは僕たちの心の投影に他なりません。
だとすれば、「他人のミスを願う」ことは、神仏つまり僕たちの本当の心を驚かしているのです。
僕たちは「たてまえ」と「本音」を分けてきました。
そして「たてまえ」を「きれいごと」と呼び、「本音」をきたない部分としてとらえてきました。
でも、見直しが必要なんじゃないでしょうか。
自己を素直に見つめる、深く見つめる、すると本音が見えてくるような気がします。
それは、幼い頃1つのミカンを友達と分け合って食べたおいしさに似ていませんか。
僕たちは本音の部分で「分かち合う楽しさ」を知っているんではないでしょうか。
悲しい競争社会の現実がある。
その現実の中で生きていく、しかし、少なくとも他人のミスを願う行為はしない。
これが本音の生き方なのではないでしょうか。