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■「ボーダーライン」-2000/10/18-
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「まじめな生徒でした・・。」

少年犯罪を犯してしまった子ども達についての感想を聞かれ、多くの校長先生がそ
う語りました。

マスコミ報道では「まじめな子が何故?」とか「まじめな子ほど危ない。」などの見
出しが踊りました。

僕は、これらの犯罪を作ってきたのは「ボーダーライン」が間違っていたからだと思
うのです。
もちろん、それが、すべての原因ではないことは明白です。
しかし、大きな要因、あるいは遠因であることは間違いないと思います。
そして、そうだとすると、僕も「加害者」とは無関係ではないのです。

そのボーダーラインは僕たちの世代(昭和30年代)が作り上げてしまったラインだ
と思っています。
もちろん、僕らの仲間内だけでのことかもしれません。
以下は僕が子どもの頃のことです。
一つの例として読んでみて下さいね。

僕らは友人の行動を見るときに「まじめ」とか「不まじめ」というラインで分けてな
かったのです。
もちろん、その色分けはあったのですが、そのラインは非常に薄かった。

そのような観点よりも「明るい」か「暗い」かを重要なラインにしていたのです。
「まじめ」でも「不まじめ」でも、どちらでもよかった。
とにかく明るい子が評価を得ていたのです。
そして、僕らの感覚として「不まじめ」の方が、より「明るい」に近かったのです。

スポーツや趣味でもそうでした。
何となく「卓球は暗いよね。」とか「囲碁なんて暗いよ。」、そんな基準が大手を
ふって歩いていたのです。
根拠そのものが軽薄、というか、こじつけなのです。

先生を見る目もそうでした。
熱心に教えてくれる先生かどうか、なんて観点はあまり意識になかったのです。
「あの先生、暗いよな。」
その一言が先生の評価の大きな部分だったのです。

そして、実は先生達にも子どもを見る観点としてそのラインがあったように思います。
僕が小学生の頃、黒板の上には「あした」と書かれた額が掲示されていました。
「あ」かるい子、「し」っかり聞く子、「た」くましい子、なのです。

「明るい、暗い」というボーダーラインはいつも教室にあったのです。

どこかしこに存在した「明暗のボーダーライン」・・。
今考えれば、そのラインはとても残酷だった気がします。

例えば、いくら「まじめ」に生活していても、「暗い」という負の評価を受けていた
わけですから・・。
逆に「不まじめ」でも、明るいと思われれば、人気者なのです。
「明るい」人ばかりが生きていきやすい社会を作ってきていたのですね。

少なくとも僕はそのボーダーラインを受け入れてきました。
いつも僕の行動基準の中にあったラインなのです。
その意味で僕は「加害者」を生み出す側にいたのです。

ここの見直しは絶対に必要だと思います。
みなさんは「明暗のボーダーライン」について、どのように考えますか?
ご意見お待ちしています。

(了)



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