人は、自分でまいた種を、後の日に刈り取らなくてはなりません。
刈り取らなかった物は、たとえ良い物であっても、悪い物であっても、
その人の収穫とはならないでしょう。
子供の頃私は、多くの大人達に囲まれて育ちました。
そのせいか、大勢の人の前でも、平気でふざけていました。
それだけに、親の手を焼かせたと思います。
小学生時代は、5年生まで「特別席」でした。
教壇の隣に、自分の席があったのです。
でも、先生が黒板を向くと、よく振りかえっておしゃべりし、
その度にしかられていました。
家でもやはり、好奇心と衝動に溢れた毎日でした。
父はよく私の尻をたたきました。
理由は良くわかっていました。
私の尻も、父の手も腫れました。
私達は良くその事について話し合いました。
散歩しながら、お風呂の中でも、
「注意しても、警告しても、もう一度したら、お尻をたたくからね」
父は「物を書くとき困るから」といって、時には定規や角材も使いました。
私はたたかれて当然なことは理解していました。
今は、兄弟も多かったのに沢山の愛を注いでくれたと感謝しています。
小学校2年生の時(23年前)、叩かない一人の先生がいました。
けれども先生は、私達が悪さをすると、
先生の手を定規で打たせました。
「私が悪いんです。皆さんへの愛や、言葉が足りなかったのでしょう。」
「だから、私の手を叩きなさい。」
時には、2回打たせました。
クラス全員が先生の手を打ったこともありました。
赤く腫れた手を見ると、悲しくなり
一人がやさしく打ちました。
すると先生は
「もっと、強く打ちなさい。先生は、もっと君を愛したいから。」
と言われました。
20歳を向かえ、成人式のとき、
式の余興で同級生たちが、郷土劇をしてくれた。
テーマは「親しき仲にも礼儀あり」
御祝いを、見せるばかりでなかなか手渡さない叔父が
甥に礼儀を説くというものでした。
あれから11年、町長の祝辞は忘れてしまいましたが、
郷土劇は、ことある度に思い出しています。
私は今も、自分の親に対して、自分の手を打たせた先生に対して
ある程度の緊張感を持ちつつ付き合っています。
それは必要な緊張感であり、精神社会の、必要なバランスであると思います。
最近私が、子供の事でいらいらしていると、
母は 「自分がどうだったか思い出してごらん」と言い
父は 「子供は、騒ぐ・汚す・壊すものだと心得なさい」と言う。
孫も出来て丸くなったものだと思った。
確かに大人には、感情的ではなく冷静な状況理解が必要です。
けれども、同じ尺度で子供と付き合う子とは出来ません。
なぜなら、子供は他律の時代を通して自律を学ぶからではないでしうか。
小さな頃から自律を迫られた子供は
ある限られた自由を獲得する為に必要な他律を退け、
本当の自律が求められた時、選択肢の少なさに絶望するかもしれません。
人は、自分でまいた種を、後の日に刈り取らなくてはなりません。
愛ある教師(大人)達によって必要な他律の内に、必要な土作りを学び、
自分で「種」を選ぶ日に、輝く瞳が見たいのです。
(了)
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【3】編集人ひとこと
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■僕らが学生の頃、ある評論家さんがテレビでよく言ってました。
「若者の言葉が乱れてる。略語が多すぎる。歩行者天国を【ホコテン】
となどという。わけのわからない略語で話をしている。」
最近同じ評論家さんをテレビで見ました。
「家庭の主婦にとっても、これからは【IT】時代ですよ。
キーワードは【IT】です。」
うーん、【IT】って、略語じゃないのかなあ・・。
それも外国語の略語だから横綱級の「わけのわからなさ」・・。
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