そして、効能書きの他に「副作用」についても説明がついています。
「この薬を飲むと眠気をもよおしますので、車の運転などはさけて下さい。」
そんな感じです。
考えれば、僕は「効能書き」教員でした。
保護者を前にして、たくさんの「効能書き」を並べ立てる教員でした。
「子ども達みんなが、のびのびと意見を述べあえる授業をします。」
「そのために、こんな方法を採ります。
驚きから始まる授業、視覚に訴える授業・・。」
例えば、こんな教育的な効能をしゃべっていたのです。
今、考えれば、「副作用」の説明が足りなかったです。
というか、「副作用」を、そもそも考えていませんでした。
僕の考える学級づくりは、絶対にすべての子に受け入れられるはずがないのです。
これは、きわめて当然のことです。
しかし、当時の僕はそれが見えなかった。
僕は「先生」ではなく「専制」だったのですね。
そして、その言い訳に「情熱」という言葉を用意していたのだと思います。
まず、自分の教育について、「副作用」を考えるべきでした。
僕の方針を実施していけば、こんな悪い影響も考えられる、ということを自覚す
べきでした。
内気な子は、僕の学級運営が苦痛だったかもしれません。
控えめな子は、自分を否定されたように感じたかもしれません。
自分のことを棚に上げるようで恐縮です。
しかし自身の反省から言いたいです。
今こそ、学校教育は「副作用」を真剣に考えてほしいのです。
そして、それを子どもや保護者に知らせてほしい。
それこそが、安心を生み出す不可欠の要素だと思います。
(了)