僕の住んでいる市では乳児検診を行っています。
まず最初は、誕生から3ヶ月目の乳児の健康状態を検診してくれるのです。
身長や体重なども測ってくれるんですね。
どこの市町村でも同じような行政サービスがあるんじゃないでしょうか。
そして、その結果を母子手帳に記入してくれるんです。
先日、僕も妻と一緒に息子の7ヶ月検診に行ってきました。
会場は赤ちゃんの泣き声や笑い声、お母さんのあやし声で賑やかでしたよ。
息子も検診を受け、母子手帳にあるグラフに身長・体重を記入してもらいました。
そのグラフには、あらかじめ標準ゾーンが記されていたんです。
それで自分の子が標準範囲に入っているかどうかわかるようになっているんです。
実は僕の息子は身長が標準の範囲より下だったんです。
それで測定してくれた保健婦さんが「心配だったら、また保健所に来て下さい。」と言ってくれたんです。
僕たちは「ありがとうございます。」と言って帰宅しました。
けれども僕にとって、まったく心配じゃなかったんです。
だって僕も妻も同世代の友人に比べてとても小柄なんです。
2人とも子ども時代は1番か2番目のチビだったんですよ。
だから、そんな僕たちの息子がチビなのは遺伝的にも当たり前なんです。
そして保健婦さんも僕たち2人を目の前で見ているわけです。
だから息子がチビなのは遺伝だなってわかるはずなんです。
けれど「標準範囲でなかったので親は心配しているかも知れない」と判断したんですね。
今、「標準」は世の中にあふれています。
「グローバルスタンダード」なんていう「国際標準」も何年か前から言われています。
教育や政治、経済に至るまで日本は世界の標準からかけ離れていると批判されています。
すると僕なんかは「標準からはずれている日本はだめだなあ」と思ってしまうんですね。
「国際標準」がどんな物なのかも知りもせずに「標準」以外を否定してしまうんです。
しかし「教育・政治・経済」などは、そもそも各国の文化や伝統に基づいて発達してきたものですよね。
その国に住む人間が長年にわたって選択してきた生活習慣が生み出すものです。
いわばその国の遺伝子みたいなものが影響しているんです。
だから「国際標準」なんて存在しないはずです。
「教育・政治・経済の国際標準」も「母子手帳の標準」も同じ勘違いを誘発します。
「標準以外を否定する」心理を生み出してしまうんです。
「標準語」「標準的家庭」などの言葉も怪しいですよ。
「標準」という言葉には注意が必要ですよね。
本来、バラバラで個性的なことが当たり前のものにさえ「標準」を作ってしまう恐ろしさがあります。
僕たちは知らず知らずのうちに子育てにおいても「標準」を作ってなかったでしょうか。
少なくとも僕は、はっきりとは意識しなくても「標準」イメージを作っていたような気がします。
今、僕たちにとって「標準」からの解放が急務なのかも知れません。