鏡は僕に、はっきりと一部分の僕を見せてくれます。
それは一部分ではあるけれども、大きく僕の心や行動に影響する場合があります。
このごろのそれは「うーん、もう無理はできないなあ。」とかいう消極的な影響
が多いです。
そう言えば、新聞の広告などで「しみ抜き・あざ取りおまかせ下さい。」という
セリフをよく目にします。
「しみが無くなり、晴れ晴れとした気持ちで通勤しています。(お客様の声)」
なんていう紹介もありました。
逆を考えると、「しみがあると、通勤も憂鬱」ということですよね。
これも、鏡のなせる技ですよ。
鏡がなければ、人生の中で自分のしみをはっきり見ることはないでしょう。
つまり、しみを憂鬱と思うこともないわけです。
自分を知ること、これは大切なことなのでしょう。
しかし、それは時として、知りたくなかった自分を見てしまうことになってしま
います。
白雪姫にでてくる魔女が「鏡よ鏡、鏡さん。世界で一番美しいのは誰?」と
聞きます。
魔法の鏡が「それは白雪姫です。」と答えたことから魔女の悲劇は始まります。
僕ら大人は知らないうちにたくさんの「鏡」を用意しているかもしれません。
順位付けテスト、通知票、そして毎日の授業での評価、受験・・・。
そういう「鏡」の前に子ども達はいます。
彼らは、いやおうなしに、自分というものの1面を見せつけられています。
それは、のぞきたくてのぞいた鏡ではありません。
確実に大人が用意した鏡なのです。
鏡をのぞかないと将来困ったことになるぞ、っていう呪文までかかっている場合
さえあります。
そして、その見せつけられた1面が強烈な負の印象となって残る場合だってある
でしょう。
また、その1面をすべてだと思ってしまい、自殺を選んだ子もいました。
教育は「鏡を用意すること」ではない、そう思います。
学校や社会にたくさん存在する「鏡の見方」を伝えることだと思います。
僕ら大人が経験から学んできたその見方を伝えるべきだと思うんです。
でなければ、鏡はいつだって「魔法の鏡」になってしまいます。
「40才だろ、もう無理はできないぞう・・。」
魔法の鏡は僕にそう言いました。
「もうちょっと、はりきってみるかな。」
そう思いました。
(了)