森首相が「神の国」発言をして、物議をかもしています。
最近の僕は、「政育分離」(僕の造語です)という考え方をしています。
どんな政治体制になろうとも、どんな政治家が出てこようとも、家庭教育は左右されてはいけない。
そう思っています。
つまり、政治(政)から家庭教育(育)は独立して存在しなければいけないと思っているんです。
できれば、学校教育もそうあってほしいのです。
しかし、学校が行政の1機関である以上、無理かなとも思っています。
だから、せめて家庭教育だけは独立させたい、「政育分離」が必要、そう考えているのです。
もちろん、僕たちはよりよい社会にするために、選挙という手段で政治に参加します。
いろんな場で世論を形成し、政治に関わっていきます。
けれども、政治はどう動くかわかりません。
おかしな話ですが主権者である僕たちの意志とは全く別の動きをしてしまう場合があります。
歴史に学べば、民主的と言われたドイツの憲法からも独裁者が生まれました。
現代の日本を見てもそうでしょう。
日本は民主国家です。
しかし、僕たちは民主主義の名の下に行われる権力闘争をいやと言うほど見てきました。
お金がとびかう政治、利権を争う政治、密室での談合政治、醜さを見てきました。
セクハラを行い、うそをつき続けた政治家も記憶に新しいのではないですか。
「権力は腐敗する。」
この言葉は悲しいけれど、多くの場合で当たっていたのです。
政治につきあって家庭が腐敗しては、たまりません。
こんな時代だからこそ、確固たる家庭教育の方針を持たねばならないと自分に言い聞かせています。
こんなふうに書くと固い感じになりますが実際はそうでもありません。
昔の日本の家庭には「家訓」というものがあったそうです。
僕や妻には「訓」という言葉は、やや強制的な感じがしました。
しかし、それに変わるものは必要だと考えたのです。
それで、「我が家のモットー」という言葉で、保護者としての方針を作りました。
もちろん、子どもにもわかる表現で作りました。
「(我が家のモットー)隠さず、威張らず。」
たったこれだけのことです。
「隠さずに話そうよ。威張らずにつきあおうよ。」
当たり前のことだけれど、言葉にしたのです。
「我が家のモットー」を持つことは「政育分離」の第1歩にもなると思っています。
僕たちは竹のようにしなやかな意志の強さをもつ「家庭」を作りたいのです。
時の総理が「神の国」と言ったからといって「神の国の国民」にはなりたくないのです。
また逆に、独裁者が出てきて「無神論」を言おうとも、お墓に参り、手を合わせるのです。
軍事政権ができようとも、万歳を叫びながら我が子を戦場に送り出すことはしたくないのです。
そして、そんな意志の強さを持った家庭が作る社会の権力は腐敗しないかもしれません。
皆さんも「我が家のモットー」について教えて下さい。
ご意見とともにお待ちしています。
(了)