世間知らずな先生

 「先生も民間企業で社会勉強をするべきだ。」との方針を文部省が発表しました(1999/11)。

次のような感じで話し合いが進んだようです。

「先生は世間知らずだ。」
「保護者に命令口調で話したりするらしい。」
「とんでもないことだなぁ。」
「こりゃあ修行が必要だ。」
「1ヶ月くらいデパートやホテルで研修させて対人関係を学ぶってのはどうかな。」
「それは、いいねぇ。どうせなら教師は全員、研修受けさせよう。」
「うん、もう一歩進んで1学期から1年間くらい長期間行かせるってのはどうだい?」
「それも、いいねぇ。」

2001年度から実施されそうな勢いです。
職員室でも大変な話題になっているそうです。

「いらっしゃいませ。本日1時間目のお勉強を担当させて頂きます、はいつと申します。」
「もし、おわかりにならない点などございましたら、ご遠慮なくお申し付け下さい。」
「もちろん、私、担当のはいつが、お席まで出向いてご指導させていただきます。」
こんな喜劇と笑えないようなオカルトシーンが教室に出現するかもしれません。

 僕は誤解を恐れずに言えば「すべての先生は大いなる世間知らず」であった方がいいと思うのです。
教員は職人なのです。いえ、職人でなければつとまらないのです。そして子どもにとっては聖なる職人のです。
子ども達という形も大きさもバラバラのレンガを積み重ね、学級という素敵な建物を造る、これはまさに職人芸なのです。
そしてそのレンガは取り替えのきかない、世界にたった1つのレンガなのです。
職業の上下を言っているのではありません。個性という精神にまで触れる職業の特性を「聖」と言いたいのです。
だから職人としての「専門性」「精神性」を求めるのならわかります。けれど「世間」を求める必要はないです。
それなのに、場合によっては1年間もの長い間、「世間」を教え込むというのです。

僕は先生には、むしろ世間的な価値に背を向けてでも教育に打ち込んでほしいのです。

 学長の椅子を狙って派閥を作る教授より、幻の蝶の研究に生涯をかける教授のほうが魅力的です。
保護者の顔色うかがう教員より、普段着の言葉で親と話せる教員にこそ子どもを託せます。
校長におべっか使う先生より、子どものいたずらに顔を真っ赤にして怒る先生のほうが子どもを伸ばしてくれます。
デパートでの接客練習を甘んじて受ける先生より、研修を拒否し1冊の教育書を読み通す先生の方に正義を感じます。

 僕は教員に「世間」を求める文部省「聖職」を否定する日教組大変な勘違いをしていると思います。



ご意見ご批判は今すぐメール
あなたのご意見などはHPやメールマガジンにて紹介する場合があります。
その際はすべて匿名とします。

ホームへ       語句別索引へ