娘が通う小学校のマラソン大会でのことです。
沿道にはたくさんの保護者や地域の人が出てきていました。
「がんばって!!」
「あと少し!!」
声援が飛んでいました。
僕は折り返し地点のすぐ側で見学していました。
赤い顔と白い吐く息のコントラストが印象的でした。
中には息も絶え絶えで歩いてやってくる子どももいました。
けれど、声援が耳に届くと、また小走りを始めるんですね。
その時のてれくさそうな子どもの顔に保護者は拍手を送っています。
マラソンは子ども達に自分の可能性の再認識をさせるスポーツだと思います。
「うわあ、僕はこんなに長く走れたんだ。」
「途中で歩いてしまったけれど、ゴールしたぞ。」
「ああ、去年は完走できなかったけれど今年は完走したぞ。」
だから、順位をつけても教育的には何にもなりません。
順位を上げる技術や精神を教えるのは教育者ではないと思います、指導者です。
もちろん、「順位を気にするな、完走する事が大事だぞ。」と先生達は子どもに語るでしょう。
「では、なぜ順位をつけるのですか?」と聞かれたら何と答えるんでしょうか?
「順位を気にしない精神を養うためだ。」という苦しい答えしかないですよね。
そして、そういう先生でも必ず1位の子を誉めますよ。
むしろ、疲れてくじけそうになっている人がいれば、
「一緒に走ろうよ。」と声をかけることの大切さを知らせることが教育者ではないですか。
転んだ人がいれば、手を貸してあげること、その中にこそ価値があると教えてあげたいです。
ある先生はこう言ったそうです。
「もし、転んでけがをした人を見かけたら、チェックポイントの先生に言いなさい。
先生達が責任を持って治療するから心配はいらないよ。
君たちは、そのまま走り続けたほうがいい。
けがをした人も、自分のために友だちの順位がさがったらいやだろう。
親切がかえって相手の負担になることもあるんだ。」
正論です。
順位競争をベースとすれば、まさしく指導者としての正論です。
けれども教育者としては暴論だと思います。
僕は思うのです。
少なくとも義務教育の場での順位競争は自由参加の方向を模索すべきだと。
順位競争は相手のミスが自分の利益につながるという欠陥を持っているのです。
「一緒にがんばろうよ」がむなしい表面的なスローガンにならざるをえない宿命を持っているのです。
だから、競争が持つ有効性は自由参加の前提がなければ発揮されないと思うんです。
1年生が走ってきました。
大きく口をあけて息をハアハアしています。
よく見ると、まだ、乳歯も抜け切れていない子どもでした。
「苦しいのは自分だけじゃないよ!!」
応援のお母さんが叫びました。
このお母さんは子どもの何を応援しているのでしょうか。
「がんばれ」や「あと少し」とは、本質的に違う応援だと思うんです。
学校にも家庭にも指導者が増えてきたような気がします。