宗教に関する事件報道があいついでいます。
どのような宗教にしても信者は共通の思いがあります。
「救い」を求めているのです。
それは、実生活における「救い」かもしれません。
もしかすると、来世における「救い」かもしれません。
なぜ、宗教に「救い」を求めるのでしょうか。
それは現実社会に「救い」がないからに他なりません。
学校も社会もすべての人を競争に参加させるシステムの中で動いています。
現場の教師や会社の経営者の個人的考えとは関係なしに、その巨大な競争システムが支配しています。
もっと成績をよくしろ。
もっと友だちを作れ。
もっと速く走れ。
もっとアイデアを出せ。
もっと汗を流せ。
もっと売り上げを伸ばせ。
このような世界に「救いの場」がありますか?
ないからこそ、宗教がその提供者となっているのだと思います。
けれども突き詰めていけばここに矛盾が生じると思うんです。
宗教の布教活動がすでに他の宗教との間に信者獲得の競争原理を生んでしまうからです。
これは、その宗教を信仰すればするだけ、深まっていく必然性を持っていると思うんです。
また、過激な宗教になると現実社会を否定し、暴力革命まで画策するような例もありました。
僕は宗教を否定するのではありません。
宗教を通じて、生きる意味や、真理について得るものがたくさんあるのだろうと思います。
けれど、まず家庭が「救いの場」となるべきだと思うんです。
もういいよ、成績を気にするのはやめようよ。
友だちなんて、いつかできるもんだ。
ゆっくり、歩こうよ。
お金もそんなにいらないよ。
家庭がそう言えば、たくさんの問題が解決します。
僕は現実社会の競争システムは矛盾に満ちあふれていることは決して否定できないと思います。
しかし、急にこのシステムを変えてしまうことは、不可能だし大きな混乱を生じます。
また、あまりに現実を憎めばそれだけでストレスがたまってきます。
では子ども達にこの現実とどう対面させたらいいのでしょうか。
そこで、この社会を海のようなものだと思うことにしたんです。
海にはサメがいます、高波もあります、しかも子ども達は泳ぎも上手じゃない、大変危険です。
しかし、だからといって海の水を無くしてしまおうとしても凡人にはできません。
現在の学校教育は泳ぎ方を教えますよね、上手に泳げなければ危ないよと言います。
それも一つの考え方です。
でも家庭はもっと別の考え方をしたらいいんじゃないでしょうか。
まあ、天気がよくて風のない穏やかな日に、砂浜近くで浮き袋に乗ってぷかぷか浮かせよう。
僕は、そう考えたんです。
そして、子ども達にその浮き袋を用意してあげるのが家庭だと思うんです。
家庭は浮き袋だ、と思ったとき、親である僕自身も救われた気がしました。
それでも解決できない問題、それを宗教に委ねたらどうでしょうか?