先日、自宅のテレビが壊れてしまったんです。
購入から1年以内だったので無料で修理してくれました。
その時、電気屋さんがこう言ったんです。
「もし、また故障したら連絡下さい。保証期間なら今度は別の新品と取り替えますから。」
現在、ほとんど電気製品に保証期間が設定されていますよね。
1年保証は当たり前です。
2年、5年なんてのもありました。
うちのミシンなんてメーカー永久保証なんですよ。
すごい自信ですよね。
でも、そもそも保証してくれてるメーカーが永久に倒産せずに続くって保証がないですよね。
けれども、その時は「すごいなあ、永久保証か。」と思って買ってしまいました。
僕は保証に弱いんです。
もし、保証なしの電気製品だったら、たぶん買わないと思うんです。
「1年後さえも保証できないのか、なんだか怪しいぞ。」と思ってしまうんですね。
結局、どんな保証でも最後の手段があるわけです。
「別の新品と取り替えますから。」という安心感をお客さんに与えるわけですよね。
でも、実はこの安心感は「壊れるかも知れないぞ。」っていう不安感が前提にあるわけです。
「保証」という言葉は先生という職業からはとても考えられないことです。
教員は1年先の教育を保証できるでしょうか。
「私が受け持った子ども達は1年後はこうなっていますよ、保証します。」
こんな言葉は口が裂けても言えません。
僕たち保護者もそんな保証は求めません。
家庭での子育てだって、「こういうふうにすれば、1年後はこう育つ」なんて保証はできないわけです。
どんな天才的な指導者がいても教育に保証はできないです。
だって「ダメな時は、別の子どもと取り替えますから。」という最後の切り札がないんですから。
けれども人間はついつい教育に保証を求めてしまいます。
ありもしない幻想を保証と勘違いしてしまうんですね。
「こんな教育を受けさせれば、こんな大学に行けて、こんな就職ができ、幸せになれる。」
これが保証されたこととして捉えてしまうことがあるんですね。
それは、「そうでなければ幸せではない」という不安感が前提です。
それでこんな学歴社会ができてしまったんですよね。
スポーツ教育の世界でもそうです。
将来のプロ野球選手を目指して、投げ込みをしすぎて肩を壊してしまった高校球児がたくさんいます。
僕の同級生にもいました。
本来スポーツは健康な体を作る為のものなのに、、。
今の投げ込みが将来の幸せの必要条件だと思ってしまい、エスカレートしすぎてしまう。
今、投げ込まなければ不安だから、という心情が常につきまとうんですね。
僕たち保護者は、ついつい子どもに言ってしまいます。
先生方も言いますよね。
「君の将来のためなんだから。」
でも、それは何の保証もない虚しい言葉なのではないでしょうか。
教育とは本来そんなものじゃないと思います。
「今の君に必要な教育をしてるんだ。」っていう「瞬間保証」が必要なんだと思うんです。
そして、その「瞬間保証」の積み重ねが未来を生むと思います。
将来の不安感を前提としない「瞬間保証」の教育、僕は何とかできそうな気がします。