3学期になると幼稚園は卒園の準備に入りますよね。
教員も園児たちも保護者もそろそろ小学校入学を考えてきます。
幼稚園の側を通りかかると園児たちの可愛い歌声が聞こえてきます。
「1年生になったら、1年生になったら、友だち100人できるかな。」
楽しそうな歌声が響いています。
そして、やがて小学校に入学します。
入学式で校長先生から「友だちをたくさん作りましょう。」と言われます。
折にふれて学級の先生から友だちの大切さを教えられます。
保護者も言います。
「勉強もそうだけれど、友だち作りも大切よ。」
「友だち、友だち」と繰り返し言われます。
そのうちに「友だち」は至上命題のようになってきます。
1学期も終わりが近づいてくると先生は心配します。
「あの子は、休み時間に教室でぽつんとしている。友だち作りができてない。」
保護者も心配します。
「うちの子は友だちがいないみたい。なぜかしら。」
先生は手だてをこうじます。
「貴史君、今日は外へ出てみんなと遊んでみたらどう?」
保護者は毎日のように確認します。
「今日は誰と遊んだの?」
なぜ教育現場はこんなにも「友だち至上主義」になってしまうのでしょうか?
仮に、そんなにも友だちが大切だとしたら、もっと時間をかけてゆっくりと作るべきではないですか?
大人からの作為によってできる人工的な友だち関係はもろいでしょう。
僕はそもそも友だち作りがそんなに大切だとは思えないのです。
それは逆です。
たまたま自然に知り合った人間がいつのまにか大切な人間となり、それが友だちとなるわけです。
大切な人間が友だちになるのです。
それはワインの熟成に時間が必要なようなように個々の時間が必要だと思うんです。
僕たち大人が教育すべきは「友だち作り」ではないと思います。
むしろ、「友だちがいなくても平気だぞ。」と教えることだと思うんです。
そして、「友だちはいつか自然にめぐりあうものだ。」と教え、焦らせないことです。
休み時間に教室でポツンとしている子をかわいそうという目で見るのは間違いかもしれません。
その子は友だちなしでも生きていける力を持っているのかも知れないです。
また、いつの日か、同じような子に教室で出会うかもしれません。
その時がその子にとってのワインの栓を抜くときなのです。
「友だち100人できるかな。」
幼稚園から聞こえてくるその歌は無意識のうちに大人にも子どもにも呪縛をかけているかもしれないです。
子どもたちを「友だち作り」から解放してやること、この方が大切だと思います。