「公園の先の池田さんとこのおばあちゃん退院したそうよ。」と妻が言いました。
「えっ、あのおばあちゃん入院してたの?」
「うん、2週間ほど前からね。」
「そう言えば最近見なかったもんなあ。」
何年間も少女を自宅に監禁していても発見されなかった現実。
隣室で殺人事件がおきても気づかなかった現実。
最近、流れてくるニュースは「地域の消失」を教えてくれました。
僕も同じです。
僕はこの1週間にどれだけ近所の人と話したでしょうか?
「おはようございます。」
「今日は、寒いですね。」
「じゃあ、失礼します。」
この3つくらいしか思い出せません。
だから、ほんの300メートル先のおばあちゃんの入院さえ知らなかった。
こんな現実が今の僕には違和感なく感じられているのです。
一方、現代は「高度情報化社会」だと言われています。
確かに、僕たちはインターネットなどを利用して世界の情報を入手できるようになったのかも知れません。
しかし、わずか300メートル四方の情報には、ものすごくうとくなってしまいました。
これが、僕の「高度情報化社会」の実態なのです。
皆さんはどうなのでしょうか?
教育界ではそれに呼応して「英語を第2公用語にする。」という構想が出されました。
僕には第2公用語が何を意味するのかよくわかりません。
たぶん、とにかく「すべての日本人が英語が話せる」ように教育するってことでしょう。
そこで、僕が英語が話せるようになった場面を想像してみました。
隣にはアメリカ人のジョーンズさんが住んでいるとします。
第2公用語の威力発揮です!!
「Good morning!」
「It's cold」
「Have a nice day!」
悲しいけれど、僕と隣人との会話はこの3つの会話文だけでことたりそうなのです。
そして、その関係は違和感なく流れていきそうなのです。
いつの日か、僕と妻は話すかもしれません。
「お隣のジョーンズさん、退院したんだって。」
「知らなかったなあ、、。」
「高度情報化社会」・「第2公用語」、僕には、むなしく響くのです。
僕はこのような現象を「大正デモクラシー」をヒントに「灯台モトクラシー」と名付けました。
僕の周りには「灯台モトクラシー現象」が山ほどありそうな気がします。
足下を照らす提灯が、今の僕には必要なのだと痛感しました。
(了)