「子どもの前じゃ言えないけれど、今年の担任、はずれだったわ。」
と、あるお母さんが世間話で言いました。
そして、その「はずれ」と言われた教員は僕のよく知っている先生(小学校)だったのです。
僕はびっくりしたんです。
というのは、その先生は僕たち教員の間では「実力のある先生」と認められていたからです。
実は校長を含めて教員は教員同士を評価し合っているのです。
少しだけ説明しておきます。
教職員以外の方はご存じ無いかも知れませんが、全教科を指導する小学校の教員にも専門があるんです。
例えば僕は理科が専門でした。
それで、学校を越えたサークル研究会などに所属して授業技術などの研修をしたりするんですね。
その所属員でお互いの授業(これを研究授業と言います)を見せあったり、討論しあったりするわけです。
その研究の過程で、「あの先生は実力がある」などと噂になってくるんですね。
ただし、この実力の中身ですが、実は大変曖昧です。
僕が「実力がある」と判断する教員は授業中に「子どもをのせる」ことのできる先生でした。
これとても非常にあやふやな基準です。ほとんど感性に頼っているわけですから。
その先生は体育を専門としていました。
彼はいろんな体育の研究会に所属し、「実力者」だと認められていたわけです。
もちろん僕もそう認めていました。実際に研究授業も見たことがあります。
「体育を通しての仲間作り、学級作り」などの研究を熱心にしている先生でした。
ところが、その実力者を「はずれ」だったというのです。
そのお母さんが「はずれ」と言った理由は次のようなものでした。
「あの先生、体育ばっかり熱心で、、。うちの息子は運動嫌いだから合わなかったみたい。」
「○○さんのお母さんもそう言っていたわ。」
教員間の評価は保護者からの評価とは一致しない、当然のことですが改めて思い知りました。
保護者サイドから教員を選ぶことはできません。
だから、我が子の担任がどんな指導をしてくれるのか、ってことは「宝くじ」みたいなものです。
つまり、あたり、はずれ、があります。
(この言葉はあまりいい響きではありませんが、生の声という観点からあえて使います。)
しかし、宝くじのように、はずれ券はゴミ箱にポイというわけにはいきません。
ほとんどの場合は1年間の接点があるからです。
そして、やっかいなことに他の保護者がみんな「あたり」だといっても、何の意味も持たないのです。
ましてや教員間の「実力認定」なんて役に立ちません。
では、1年間じっと我慢するのか。
これはもっとも愚かなことです。
なぜなら、「はずれ」は放っておけばそのままですが、保護者次第で「あたり」に変わるからです。
多くの教員が、できればすべての子ども達にとって「あたり」になりたいと思っているんです。
誤解の無いように言っておきますが、子どものご機嫌を伺うという意味ではありません。
その子に「学ぶ喜び」を体験させたいと思っているのです。
このお母さんは先生に言うべきだったのです。
「先生、うちの子は運動が嫌いで、子どもなりに悩んでいるようなのです。」
すると、ほとんどの先生は何らかの対処をしますよ。
保護者の中には「学校に人質を取られている」などという誤解をしている人がいます。
それは、間違いです。「人質に取っている」なんて感覚は教員にはありません。
少なくとも僕はそんな先生は見たことも聞いたこともないです。
そして、保護者が何か言うとうるさがるような教員も知りません。
だから、そんなことを思ってあきらめるより、直接言ってみるべきなのです。
電話でも手紙でも連絡帳でもいいです、手段はたくさんあります。
考えてみて下さい、僕たち保護者は教員とどれだけ個人的に話をしているでしょうか。
1年間という長い期間の中で、何時間話したでしょうか。
もしかすると分単位でしかないかも知れません。
こんな状況で「我が子に合った指導を」なんて無謀です。
話すことです。とにかく話してみること。
勇気を出して話してみましょうよ。
これが第一歩です、そして最良の解決方法だと思います。
その中から僕たち保護者も成長していけるんじゃないかなと思うんです。
僕は教員に対する評価は保護者にとって必要だと思います。
そして、必要とされる評価は教育委員会が行う5段階評価や勤務評定ではありません。
また校長や教員同士が行う「実力」認定でもありません。
我が子を通じて感覚的に行う保護者の評価、それこそが重要なのです。
そして僕たち保護者はその評価に対して責任を負わねばなりません。
その責任の取り方、それは、保護者としての思いを教員に伝えることです。
終わってから「はずれ」だったというのは簡単です。
でも、それは逃げでしかない。
「はずれの教員」は保護者と教員の両者で作り上げてしまったものです。