表彰式にさえも女性を土俵に上げない、ということで、以前から問題の多かった
相撲協会です。(官房長官や知事でさえあげませんでした。)
このことは、遅ればせながらも、とても画期的なことだと思います。
ただ、、。
ただ、僕は、横綱審議委員というもの自体に疑問を持っているのです。
それは、僕が教員を体験するまでは、思いもよらなかった疑問です。
僕は子どもの頃からの相撲ファンで、
本場所の始まりを楽しみに待っている一人でした。
当然、最高峰である「横綱」の決定には大きな興味がありました。
次は誰が横綱になるかなあ、など父と一緒に話していたものです。
ところで、みなさんはご存じでしょうか?
「横綱」選出にはおおまかに言うと2つの要素が関係してくるんですね。
1つは戦績です。
大関の地位にある力士が2場所連続優勝、あるいはそれに近い成績を修めた場合、
これは、横綱の資格ありとされます。
多少のあいまいさは残りますが、納得のいく線でもあると僕は思っています。
もう一つの要素。
実はこれに関して、僕は「おかしいなあ」と思っているのです。
その要素は「力士の品格」なのです。
戦績に現れる強さだけでは「横綱」の資格は与えないぞ、ということなのですね。
文面だけを見れば、なるほどと思います。
しかし、僕は思うのです。
それは「品格」というような個人の内面を、他者が評価の対象にしていいのか、
という疑問なんです。
他者の「品格」を評価できる人間が、この世に存在するのでしょうか。
それは、きつい言い方をすれば、「傲慢」なのではないでしょうか。
僕は教員時代に子ども達に多くの評価をしてきました。
毎日毎日、いろんな場面で評価をしてきました。
それは、本来、僕という教員を自省させるための評価であったはずです。
「今日の授業はよかったのか」、「今の一言は適切だったのか、、」。
子どもを見ながら、自分を見つめる、それが本当の評価の価値であるはずです。
しかし、今考えると、僕は傲慢という「評価の落とし穴」に入っていったような気が
するのです。
評価を日常のごとく繰り返していくと、感覚がマヒしてくるのですね。
最後には「子どもという人間そのもの」を評価している、
そんな錯覚に陥っていたような気さえします。
それこそ、評価する必要のないこと、いや、評価してはいけないこと、まで評価の対
象にしていた気がします。
僕はこんなことを教え子に言ったことがあるんです。
「ともちゃん、もっと積極的になれるといいなあ。」
ともちゃんは言いました。
「せんせ、うち、恥ずかしがりやけん、そんなん むちゃやわあ。」
僕は大きな間違いを犯していたと思います。
それは「積極的がいいこと」であり、「消極的が劣ること」であるという価値観に固執
していたことです。
まだまだ、たくさんあります。
「休み時間に外で元気よく遊ぶこと」
「みんなの前ではっきり意見が述べられること」
「友達をたくさん作ること」
そんなことに知らず知らずの内に価値を見いだしていました。
そして、それを何の疑問もなく評価の対象にしてきました。
これらの行動は、その子の性格によるものであり、「できないこと」が貴重な持ち味な
のかもしれません。
それは横綱の品格と同じように評価すること自体が傲慢なのかもしれないです。
ある先生がこんな教育川柳を送ってくれました。
「ごめんねと いいつつつける 通知票」
時として「傲慢さ」を招く「評価行為」をいましめてくれる言葉です。
僕らの評価は、もちろん保護者としての立場を含めてですが、けっして子どもを追いつめ
るためのものでは、ありません。
「評価してはいけないこと」、、それぞれの立場で再考してみませんか?
(了)
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