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■「金魚と僕(2)」 -2000/04/19-  その(1)
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「金魚は自分がお腹いっぱいかどうかわからずに、死ぬまでどんどんエサを食べてしまう。」
僕は小学生の頃、金魚屋のおばちゃんに教えられました。
それが本当のことかどうかは大人になった今でも僕は知りません。
そして、そう教えられたこと自体、記憶の中から抜け落ちていたと思っていたのです。

しかし、僕はつい最近、そのことを思い出したのです。
それは公園でのことでした。

僕の自宅のすぐ近くに公園があります。
よく子どもを連れて遊びに行くのです。
春になり、近所の子ども達もたくさん遊びに来ていました。

その中に3人組の男の子がいたのです。
そうですね、3年生ぐらいでしょうか、。
男の子達は携帯用のゲームを持ち、おしゃべりをしていました。
「おい、今、何が1番ほしい?」
「そりゃあ、お金や。」
「僕もお金や。」
「なんぼくらい、ほしい?」
「そりゃあ、なんぼでもほしいわい。」
「そりゃあ、そうじゃ、僕もいっしょや。」
「みんないっしょや。なんぼでもほしいわい。」

この会話を耳にした僕は思ったのです。
「『お金はなんぼでも、ほしいわい、、。』僕もそう思っているかも知れない。」
お金はあるにこしたことはない、とか、あって困るものじゃない、僕もそう教えられてきたのです。
そう言えば、僕の娘のクラスの文集にも似たような面が出ていました。
「将来の夢は?」の問いに「お金持ちになること」という答えがたくさんあったのです。

そして僕は思ったのです。
僕たちはお腹いっぱいになったら食べることを止めます。
満腹の時は、どんなにおいしそうな食事を見ても、ほしくなることはありません。
しかしです。
お金はどうでしょうか?
あってもあっても、さらにほしくなってしまう、そんな気がしたのです。
100円よりも200円ほしい、いやいや1000円ほしい、もっとほしい。
そう考えた時、僕は金魚の話を思い出しました。

僕たち人間はお金に関してお腹いっぱいということを知らずに生きているのではないか。
際限なくお金をほしがり、限界知らずになってしまうのではないか。
そんな大人の考えが知らず知らずのうちに子どもに伝わっているのではないか。
ちょうど、金魚がエサを食べ過ぎて死んでしまうように、それは不幸を誘うのではないか。

僕たち大人が子どもに教えなければならないことは「アメリカンドリーム」ではなさそうです。
際限のない欲望の悲劇こそ、僕たちが教えねばならないことだと思います。
そして、僕の中にしっかりと存在する「金魚の悲しさ」を自覚したいと思いました。

人間が考案したお金というシステム。
日本人にとって生存に欠かせなくなってしまったシステム。
だからこそ、僕たち大人は、そのシステムに対する態度を明確に子どもに伝えるべきでしょう。
「お金持ちになりたい」という子どもの夢は、夢ではなく悲しい現実のような気がしました。

「お腹いっぱいかどうかわからずに食べ過ぎて死んでしまうよ。」
思い出せてよかったなあ、僕はそう思いました。

(了)



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