僕たちは高いところに登ります。
山に登ったり、木に登ったりします。
当たり前のことですが平坦なところや低いところには登れませんよね。
つまり「登る」ということは必然的に対象を高いところにおいているわけです。
僕たちは「学校に行く」という行為を「登校」とよんでいます。
そして、学校から「自宅に帰る」行為を「下校」とよんでいます。
僕は教員時代、この言葉を違和感なくで使っていました。
また、ほとんどの人が僕と同じではないでしょうか。
実はこの言葉に、学校と家庭の立場が象徴されているのかもしれません。
学校を家庭よりも一段(数段かもしれませんが)高い所に位置づけているようです。
学校は「登る」ところ、家庭は「下る」ところ、そういう認識があるのかもしれません。
学校制度がスタートした時点で段差ができていたのですね。
これは言葉だけの問題ではないような気がします。
意識の問題なのです。
いえ、もっと深い無意識下の問題かもしれません。
「なんとなく学校は敷居が高い」と保護者が言っているのを教員時代に耳にしました。
その頃の僕はこの言葉を軽く受け止めていました。
「そんなことはないですよ。気楽に学校に来て下さいよ。」と答えていました。
今、考えれば、もっと真剣に受け止めるべきだったかもしれません。
きっと、その保護者にも「敷居の高さ」の理由ははっきりしたものではなかったでしょう。
経験的、感覚的に身についた「高さ」だったと思います。
僕たちが受ける学校教育の第一歩は「小学校の入学式」です。
それは保護者として子どもの成長を実感できる感動的な場面です。
教員は新しい児童をむかえ、はりきっています。
しかし、その儀式的部分には「敷居の高さ」を作り上げてしまう何かが潜んでいるのかもしれません。
「学校は登るところ、がんばって行くところ」という高さができてしまうのでしょうか。
「登校と下校」という言葉に「お上から教育していただく」という意識がありそうです。
僕たち保護者は、もっとフラットな関係を学校との間に作らねばなりません。
僕の経験から、きっと教員もその段差を良しとしてはいないと思います。
そして言語の問題で言えば、積極的に「通学と帰宅」という言葉を使うべきかもしれません。
「学校に行くことを『登校』とよんでいた時代があったんだよ。」と教える時が来るでしょうか。
実はこの段差意識の中に「不登校問題」がありそうな気がするのです。
その2へつづきます