僕はサーカスを観るのが好きです。
サーカスの芸人さんにも知り合いがいて、2年に1度くらいですが観に行きます。
その目玉となる出し物の一つに「綱渡り」があります。
高いところに張られた1本のロープの上を、人間が時にゆらゆらしながら歩いていきます。
観客は固唾をのんで見守ります。
会場は緊張感に包まれます。
もちろん安全ネットが張られていますが、危険が漂うアトラクションです。
血のにじむような訓練を積んだ人間しかできないことですよね。
誤解を恐れずに言えば、日本の学校教育はこの「綱渡り」を子どもにさせてはいないでしょうか?
6歳の子どもを、まず学校という高いところに登らせます。
子どもの前に用意されたのは「学校における義務教育」というたった1本のロープです。
「落ちたら大変、あぶないぞ。しっかりとロープの上を歩くんだよ。」
もちろん多くの家庭は安全ネットを張っています。
しかし、それはあくまで万が一のトラブルのためです。
基本的には「がんばって、綱を渡ってくれ。」と願っています。
何の訓練もしていない6歳の子どもは、それでも言われるままに渡りはじめます。
僕は思います。
まず、行政はロープをもっと増やすことができないでしょうか。
思い切って、塾、フリ−スクールやインターネット上の教育、在宅教育などを学校の単位として認可する。
少子化を利用し、1学級の人数を極端に減らす、そしてさらに学級数を増やす。
転出・転入を住居の引っ越しという大きな労力を必要とせずに認める。
そんなことができないでしょうか。
向こう側にたどり着くのは1本のロープだけというのは、そもそも無理があったような気がします。
そして、学校の先生達にはロープをもっと太くしてほしいのです。
多くの子が安心してわたれるように、太い、太いロープを模索してほしいのです。
たとえば「競争による排除」をなくすよう、もっと真剣に考えてほしいのです。
競争至上主義はロープを糸のように細くしてしまいませんか?
「学級は家族だと思います。学校は大家族です。」
僕がこのコラムを通じて知ったN(元)先生はこういう意見をくれました。
このような考えもロープを太くする重要で素敵な要素だと思います。
いえ、不可欠な要素なのかもしれません。
そして、そのように自分の信念を公言できる教員になってほしいのです。
そうすれば、ロープは太くなり、板になり、安心して歩ける道になるかもしれません。
最後に僕たち保護者は安全ネットをはずさねばなりません。
学校に対して「登るところ」「高いところ」という意識をなくせば、安全ネットはいりませんよね。
極論すれば「たとえ学校なしでも、子どもを育てる」力と責任を持つ努力をすべきだと思います。
たとえば、我が子が学校に通うことを拒否する場合があります。
その時は「今のこの子は学校ではなく、家庭を教育の場として必要としている。」と受け止めることです。
「必要なことを必要なときに必要に応じて教育する」ことが大原則なのですから。
以前に、そんな考えは子どもを甘やかすだけで、自立心や責任感を養えない、と言われたことがあります。
僕はそうは思いません。
責任を自覚した保護者や教員がいれば、その精神はきっと子どもを感化するはずです。
そう信じています。
「登校」という言葉から2回に渡って考えてみました。
どうぞ、ご意見をお寄せ下さい。