「踊りの先に(1)」

 「今度の先生、熱心な先生で、パソコン使って授業してくれたんですよ。」
と行きつけの散髪屋さんが話してくれました。
散髪屋さんには小学校に通う息子さんがいるんです。

「へえ、どんなふうにパソコン使ったのかなあ?」
「クリスマスカードを作って持って帰ってきたんですよ。子どもも大喜びでしたよ。」
と言ってプリントアウトされたカードを見せてくれました。
何枚かの画像をコピー張り付けの作業で製作した物でした。
「今の世の中、先生もパソコンぐらい扱えないと話にならないんでしょうね。」
「そう感じます?」
「そりゃそうですよ、時代がそういう時代なんですから。」

「そういう時代が来ますよ。」
僕も教員時代にそう叫んでいたんです。
まだ1980年代でした。
僕は2人の仲間とコンピューター教育研究サークルを作ったのです。
(その後仲間は増えました。当時の仲間は今では研究のリーダー的存在です。)
もちろんWINDOWS、CD-ROMなんて影も形もありません。
ハードディスクは一般的でなく、フロッピーよりもカセットテープに保存するような状態でした。
ソフトやハードの意味がよく理解できず苦労したものです。
もちろん現場には1台のパソコンもありませんでした。
ほとんどの先生は関心が薄く、研究自体に否定的でした。
それでも、まず校長、同僚に話をし、研究に対する関心を集めることから始めました。
そして市の教育委員会に何度も足を運び、働きかけ、研究を認めてもらったのです。
1987年からは少しですが予算もついたのです。
その時に僕たちが使ったセリフが「時代が来ますよ。」の言葉だったのです。

 文部省の2次補正予算で、公立小中学校におけるコンピュータの整備に182億円計上されました。
義務教育での情報教育活性化のためにパソコン導入の促進を宣言したということですね。
家庭に目を向けてもパソコンを持っているということはそう珍しくなくなってきました。
僕たちが20年近く前に言った「時代」、そして散髪屋さんが言った「時代」がやってきたのです。

 しかし、今、僕は大きな失敗をしていたと思うのです。
「時代」がやってきた今だから気づくことができたのです。
それは「時代」の中身を吟味していなかったということです。

 当時の僕は教育界に旧態依然としたものを感じていました。
明治以来の、黒板にチョークだけの教育でいいのか、技術革新のない教育は自滅する。
そのような憤りというか焦りを感じていたのです。
そんな僕にコンピューターは黒船のように映ったのです。
そして、アメリカでのコンピューター教育の本などを読みながら研究していったのです。
今、考えるとまさしく鹿鳴館の踊りですよね。
踊ることに必死だっただけなんです。
踊りの仕方を考える、それが中心だったんですね。
踊りの先に何が待っているのかを考える余裕すらなかったのです。
そして踊らない教員に「時代からの落伍者になるぞ。」と暗に言って脅していたのですね。

「時代がやってきた」からこそ、僕たち保護者は考えるべきだと思うんです。
そして、先生達にも考えてほしいです。
パソコン教育という踊りは義務教育に本当に必要ですか?
何のために踊るのですか?
踊りの先に何があるのですか?

その2に続きます。



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